第十六章第一節<二重守護>

 雅の口から、圭太郎の離別を聞いたときの動揺は、やはり大きかった。しかしそれでも、誰一人態度に出すことは無かった。


 各人の中でその事実を反芻し、圭太郎の思惑をできるだけ理解しようと努めているのか、言葉少なに小さく頷く。


 その中でも一人だけ、綾瀬の顔だけからは、深く刻まれた眉間の皺が消えるには時間を要した。綾瀬の脳裏の中には、かつて圭太郎と交わした言葉の中に、微かではあるが思い当る節を見出していたのだ。





 あれは確か、まだ病床にあった雅が起き出し、陸軍の動向には何か裏があるという話を教えてくれた後のことだった。


 鬼を操るには、それ相応の霊的力量が必要とされる。そうした話の中で、圭太郎がぼそっと呟いた言葉。


『鬼でも式でもなんでも……そういうものが使えるのは、死ぬほどの修行をした奴か、生まれつき使える奴だけなんだよ』


 恐らく、その話に嘘偽りは無いだろう。だからこそ、霊的な技能を持つ者は限定され、その技術は口伝秘術とされ、古来より一定の地位を約束されていた。


 しかし、そのあとの圭太郎の言葉が気になった。


 努力を積むか、生来の技能か。生まれつきの方が楽じゃねえか、という綾瀬の言葉に、圭太郎は短く言い残しただけであった。


『……じゃあ、てめェは一生、そう思ってろ』


 今回の失踪の原因の一端は、そこに隠されていたのではないか。


 珍しく朝飯には手をつけず、茶だけを飲み干した綾瀬はそのことが気がかりになっていた。





 綾瀬の家は、歴代の童子斬どうじぎりの技を伝える血筋であった。


 父親は厳しかった。ただ、ひたすらに厳しかった。思い起こせば、優しく微笑みかけてくれる父の面影など、心の何処を探ろうと出てくることは無かった。母親を早くに亡くし、綾瀬は男手一つで育てられることとなった。


 振り返れば、粗雑な手料理と汗の匂いのする夜具の中での泥のような眠り、そして目覚めれば雑念など起きよう隙も無いまでに激しく厳しい鍛錬の続く日々だけがまざまざと思い起こされる。たとえ病にかかり、躰が不快な熱を帯びようと鍛錬を休むことは許されなかった。遅い来る眩暈と奮える四肢に力を込め、微塵も手心の加えられることの無い父の剱を受け、怒号を浴びながら、綾瀬は生きるために食べ、生きるために眠った。


 十の年までは気を練り、精神の鍛錬を命じられ、それ以後はただひたすらに剱術を叩き込まれた。


 綾瀬には、三つ違いの兄がいた。小さい頃から兄が父親に鍛えられている光景を見ては、その苛酷さに身を震わせていた記憶だけはふんだんにある。


 夏の練武場では胴着が汗を吸って重くなるまで打ち込みを続けさせられていた。


 冬の板張りの上では、足の裏が切れて血が噴出すまでに練武を強いられていた。


 無論、その鍛錬は綾瀬にも容赦なく課せられることとなった。


 そんな日々が、永劫に続くかと思われた、あの朝。





「おい」


 肩を叩かれ、綾瀬は我に返った。横に座る宝慈が、心配そうな顔で覗き込んでいる。


「大丈夫かぁ?」


「……済まん」


 頭の中から、過去の幻影を無理矢理に追い出すと、綾瀬は意識をはっきりさせる為に胡座を組みなおした。


 食事を終えた彼らは膳を片付け終え、そしてずっと伏せっていた雅に現状の伝達をしていたところであった。


「しっかりしてくれないと困りますよ」


 北斗は溜め息交じりに告げ、眼鏡を押し上げる。


「では、続けてよろしいですか」


 北斗が取り出したのは、一枚の地図であった。


 しかしこれまでのものではない。そこには大きく、瑿鬥えど城の構造が描かれていた。


「あれから、私が導いた一つの結論があります。これによって、我々はより追い詰められているといってもいい状況になったことになります」


 不穏な響きを持つ北斗の声。


「瑿鬥城には、間違いなく呪術は存在していました。それも、恐らくは家康と天海、二人の手による風水呪術が、です……これを見てください」


 北斗の指が、地図上に引かれた線をなぞる。


「この線が正確な方位を示すものです。この方角が南北、そしてこちらが北東と南西を結ぶ線。言うまでも無く、風水では凶とされる方角ですが」


 瑿鬥城の城壁には、その方角に門があった。平川門だ。


「一般にこの門は使用されていません、つまり鬼門に相当する方角は、凶位とする慣習が伝えられていたことを示すものなのです、ですが」


 北斗の指が、もう一つの門を指差した。


「この虎ノ門だけが、名称と方角が一致していない。しかしこれについては、家康が寅年生まれであることから、方位を無視してこの地に門を建造したと考えましょう」


「なんでそんなことをするんだ」


 沙嶺から質問が上がる。普通に考えれば、そんなことに意味があるとも思えない。


 しかしそれには、確固たる目的があったのだ。


「この方角を、名称に従って寅としてみますと、二つの一致点が発見できました。一つはここ、現在の桜田門ですが、かつてはこの方位は鬼門に相当するとして、木戸を填め込んでいました。つまり、門の形状を取りつつも、鬼や邪気の侵入を防いでいたのです」


 頷きながら、沙嶺は膨れ上がる不安を感じていた。


 それが、どうして、今は門として働いているのだ。思い出せば、あの春日梓と名乗る男装の術師に逢ったのも、その桜田門の近くだったではないか。


「もう一つは、ここ」


 北斗の指は池を指差した。


「千鳥が淵?」


「ええ」


 雅の答えに、北斗が頷く。


「ここは瑿鬥初期、鳥の形をしていたことからそう名づけられたとされています。この方角……虎ノ門を寅とすれば、こちらは南……朱雀が守護する方角です」


 つまり、瑿鬥の初期には本来の方位と見立てによる隠された方位の、二種類が存在していたことになる。


 たとえ城が霊的な攻撃を受けたとしても、同時に重なり合う複数の方位概念を攻撃しなければ、正確な霊的破壊は成されないことになるのだ。


「ですが家康の死後、天海はこの方位術を自ら、家光と共に解除しているんですよ」


「ははぁ」


 呑気な溜め息をつく宝慈は、ぽんと手を叩いた。のんびりと構える外見とは裏腹に、彼は彼なりにこの方位術の謎を解いたらしかった。


「そりゃあ、家光殿になれば、もう寺ができる頃だろうなぁ」


「その通りです、宝慈」


 くるくると地図を丸めながら、北斗は落胆の息を吐く。


「家光将軍時、天海と共に瑿鬥の各所に寺社仏閣を建立しはじめた。既に破壊された浅草寺、寛永寺のその一つ……つまり、将軍が寅生まれで無くなり、そして見立ての方位術に頼らずとも四神相応の守護を齎す町づくりに目処が立った段階で、天海は瑿鬥城の一つ目の霊的守護を解いたのです」


 木戸は外されて桜田門となり、千鳥が淵は埋め立てられて鳥の形を失った。しばらく言葉を切っていた北斗は、やおら立ち上がると上着を衣紋掛けから外し、袖を通す。


「行きましょう。四神の守護を失った皇城は、最早自らを守るすべを持たないのですよ」

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