間章ⅩⅤ<離別>

 布団の上に起き上がった雅は、背中に感じる痛みが随分と和らいでいることを確認し、安堵の溜め息をついた。


 しばらくの間、床に伏せっている間に雅が幾度、自分の不甲斐なさを責めた事か。震える唇から漏れる嗚咽をかみ殺し、枕を涙で濡らした事か。


 しかし、その度に躰に走る刀傷の痛みが、雅をさらなる自責の迷宮へと追いやっていたのであった。


 川路の元にいた三人のうち、自分だけが特殊な能力を持っていないのだ。北斗の墨曜道、綾瀬の常人離れした剱技と比較して、自分の持つ銃の腕は哀しすぎるほどに差がありすぎる。肉体性差から、膂力では女の身である自分には不利な点が多すぎる。


 それなら、差を埋めるべく自分が目指すものを変えた雅ではあったが、今回の負傷事件は彼女の自信を打ち砕くには充分過ぎた。


 自分には、この差を縮めることは出来ないのではないか。川路の特殊な任務を請け負うには、そもそも自分は力量不足であったのではないか。


 あの夜の光景は、今も瞼の裏にありありと思い描くことができる。


 強烈な光の中、自分は背後から鬼に斬られたのだ。俊敏な体躯と、自分の躰ほどもある大きな刃物で。


 もし、その場に居合わせたのが自分ではなく、北斗であったら。綾瀬であったら。


 雅の頭の中で、二人は鮮やかな身のこなしで鬼と立ち回っていた。決して、背面を取られ、注意を怠り、手傷を負ったりはしなかった。




 しかし、今朝、雅は意を決して身支度を調えた。


 もう足手纏いになったりはしない。持ち前の前向きな性格は、そのまま押し潰されそうなプレッシャーを跳ね除けるだけの力を、雅に与えていたのだ。


 いつもより、随分と早く目を覚ました雅が部屋から出ても、まだ長屋の住人は誰一人として起きてはいなかった。


 拍子抜けしてしまった雅は、そのまま外で顔でも洗おうと往来へと出た。まだ太陽の光が夜の空気に馴染んでいないらしく、雅の目には鮮烈過ぎる光に顔に手を翳し、空を見上げたときであった。


「起きてたのか」


 すぐ背後でする少年の声に、振り向く。修験法衣に身を包み、錫を手にした圭太郎が、戸口の横にもたれるようにして座っていた。


「あ……うん。私も、ちゃんと頑張らなきゃね」


 聞いているのかいないのか、圭太郎は雅の決意に返事をするわけでもなく、腰を上げた。


 手の中で錫が揺れ、環がしゃらんと音を立てる。


 今までの彼らの動きを知らない雅は、向こうから黙られてしまうと話を切り出す方法が無かった。そのまま、土を払っている様子をじっと見つめるしかできない雅に構わず、圭太郎は一つ大きく伸びをすると、錫の石突でとんと地面を叩いて見せてから、唐突に言葉を切り出した。


「俺、しばらく、ここ離れるわ」


「えっ? なんで?」


「まぁ、な」


 ばつが悪そうに苦笑してみせる圭太郎は、自分からは理由を話そうとしなかった。それでもなお、背を見せようとしない圭太郎の行動に疑問を感じた雅は、ふと思い当ることを口にした。


「……あんた、もしかして、黙って行く心算だったの?」


「仕方、ねぇんだよ」


 まるで悪戯を見咎められた子どもが言い訳をこね回すように、圭太郎は俯いたままぼそりと呟いた。


 事情を知らぬ雅が、強く言うことは出来ない。雅自身、突然の圭太郎の行動と申し出に少なからず面食らっているのだから。


 しかし、どのような理由があれ、圭太郎の決意を知っている者は、今彼をおいて自分しかいないことだけは事実だった。


「どうして、話してくれないの?」


 圭太郎は無言のまま、動こうともしない。


 このまま去っていっても、雅はいずれ打ち明けるだろう。かといって、口止めをしたところでそれが何処まで守られるか、分かったものではない。そしてたとえ雅が口止めを守らなかったからといって、自分にそれを責めることはできないこともわかっていた。


「いろいろあったんだよ……お前が寝てる間にな」


 圭太郎の放った何気ない一言は、しかし予想以上の鋭さをもって雅の胸を抉った。


 反論したい気持ちをぐっと堪え、雅は言葉を飲み下す。


 ここで言い返すことは簡単だ。しかし圭太郎が何を考えているのかを少しでも突き止めなければ、自分はただ見過ごしただけにはなるまいか。


「話せないことなの?」


 ややあって、圭太郎は小さく頷いた。


「ここを出て、何処か行くあてはあるの?」


「話したらすぐにお前ら来るんだろ? それなら話すわけねえじゃんか」


 圭太郎は、心の一部を固く閉ざしている。その前に立って、いくら開けてくれるように叫んだところで、恐らく圭太郎は頑なに抵抗し続けるだろう。


「わかった」


 雅は、はっきりと頷いた。


「だけど、必ず戻ってきてね。待ってるからね」


 先ほどまでの追求を少しも感じさせない態度で、雅はくるりと背を向けた。引き戸を閉めた瞬間、背中の方から足音が徐々に遠ざかっていく音を耳にし、雅は静かに瞼を閉じた。

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