第十五章第三節<アリスの不思議な庭>

 次なる霊的破壊の地点が美輪誠十朗の口から報告された瞬間、誰もが自らのうちにふつふつと沸き起こる興奮を感じずにはいられなかった。


 無言ではあったが、その口から吐き出される呼気は感嘆を帯び、近い将来に来たるであろう破滅を思いやる病的な喜悦が含まれている。


 横濱居留区における、もっとも壮麗な白亜の宮殿の中心に位置する広間。そこには差し渡しが五メートルにも及ぶほどの巨大な円卓と、それをぐるりと取り囲む十二の椅子。それらは全て埋まることは無かったが、しかしそれでも居並ぶ者を見れば、その会合が決して略式のものではないことが窺い知れよう。


 蜘蛛を思わせる薄いレースのドレスを身に纏う、水の象徴エレメントを操るエノク術師、ルスティアラ・ヴァーヴェロイ。


 純白のタキシードを一部の乱れなく着こなし、涼しげな表情を崩そうともせぬ、幻視錫による炎のエノク言語術を修めたユリシーズ・ベネディクト。


 香油によって頭髪を撫で付け、開襟シャツの懐にはタロットカードを忍ばせている男、幻術のアレクセイ・ファイアクレスト。


 裾の長い白い衣を着ているのは、命ある金属と瞑想錬金術を意のままにするレオ・バッシェッカー。


 そして地相占術や符術など、数々の大陸呪術を学び彼らの目としての役割を担う、美輪誠十朗。


 彼ら五人の術師らの円卓から離れ、壁際に影のようにひっそりと立っているのは、エフィリム・アルファロッド。


 胸元にはソロモン使役術に使う六芒星のメダリオンを下げており、西洋術師としては標準的な新緑の長衣に身を包んでいる。真夏だというのに、この広間には熱気とされるものは一片たりとも存在してはおらぬ。そればかりか、ともすれば呼気は白く凝るかと思えるほどの、無気味な冷気すら時折首筋を掠めすぎることもあるほどである。


 その異変は、何故起きているか。


 原因となるべきものは、黒いカーテンの向こうであった。


 エフィリムの立つすぐ横には、壁の一部を刳り貫いてつくられた窪みがあった。いや、窪みと呼ぶにはそれはあまりに大きすぎた。


 床からは緩いカーブを描くような階段が続き、カーテンの奥に隠された部分が床からかなり高い位置にあることを物語っている。


 分厚いカーテンに遮られ、階段の二段目から先は見ることが出来ぬ。しかし、たとえ見ることが出来たとしても、誰もが視線を向けることは無いであろう。


 その奥から感じられる気配は、およそ直視できる類のものではなかったからだ。


 事実、カーテンと床との僅かな隙間からは煙のように染み出てくる濃密な霊気が感じられた。その所為で、この部屋の温度は信じられぬほどに低下していたのだ。


 窪みの先、階段の先には何があるか。いまだこの極東の国に召喚を受けておきながら、誰もが謁見さえしたことのない者。今回の作戦までは、名すら知られなかった魔術結社<不思議の国のアリスアリス・イン・ワンダーランド>の最高実力者、アリシア・ミラーカその人である。


「天沼八幡の破壊が行われることにより、帝都は西の結界を破られることになりましょう。この地は西にある熊野神社という寺社の南北を繋ぐもの……ここを破れば、大きな風穴が開くことは間違いありません」


「今度は、大丈夫なんだろうね?」


 レオの疑心に充ちた言葉が重ねられ、誠十朗は声を途絶えさせた。その顔には、動揺の色は見られぬ。


「以前に破壊した二つの寺、お前の見立てではそれで東の守護が失われるということではなかったのかい?」


 それによって、帝都の霊的守護が緩んだことにより、何かが起きているわけではないというのだ。


「錬金術師の言葉とは思えんね」


 腕を組んだまま、溜め息と共に言葉を吐いたのはユリシーズであった。


「俺は逆の意見だな。これだけの歴史ある寺が、俺たち程度の魔術で破壊できる方がどうかしている、そうは思わんか?」


 ユリシーズはそれまで瞳を閉じていたが、それだけ言い終わると片目だけをあけてレオをまじまじと見やる。


 だが、視線の先の錬金術師は納得が行かないようであった。既に日本に来てからそれなりの時間が経っていることに加え、既に一人の術師が命を落としている。四国において怨霊との戦いに敗れたエノク術師、ノーマン・サザーランドの件である。


 レオが焦るのも無理は無い、そうルスティアラが助け舟を出そうとした、そのとき。


「まあ、そう急くものではないわ」


 カーテンの向こうから、女の声がした。


 はじめて聞く、アリシアの声。そこには何等特殊な気配は無い。しかしあれだけの術の使い手であれば、声に咒を重ねるなど造作も無いことであろう。


「他にも、策はあるのでしょう、誠十朗?」


「……は」


 誠十朗は頭を下げると、話を続けた。


「現在、残る北方守護の結界の探索をしておりますが……それでも効果が無い場合は、平将門星封陣を破壊し、太古の地霊を解放いたします」


 あの雨の夜、誠十朗の口から初めて語られた帝都最終破壊の図案を目の当たりにした者は皆、その言葉に身を奮わせる。


 確かそのとき、誠十朗は将門解放はかなりのリスクを伴う行為だとは言わなかったか。


 だとすれば、何か対策があるのか。


「地霊解放をして……どれだけの破壊ができるの?」


「関東近県を飲み込む規模となりましょう。中心を皇城と設定すれば、東享中心部は」


 説明につまる誠十郎の手を包むものがあった。ひんやりとした指先を伸ばし、ルスティアラが誠十朗の思念を読む。


「中心部は<堕天奈落フォール・ダウン>の発生が想定されます。階層は宗教形態が違うため、はっきりとは分かりませんが……上部地獄第五圏前後、ステュクスの沼に相当する層に到達することは間違いありません」


「それだけの危険な霊を消滅させること無く封じているだけなんて……日本の術師の力が弱かったの?」


「そうではありません」


 誠十朗がきっぱりと否定をする。


「墨曜道の基本概念に陰と曜というものがございます。如何なる存在といえど、それを完全に消滅させることは、世の理に反するということです」


「それが、破滅を齎すものだとしても?」


「それほどまでに、牙を剥くことがあるとすれば……それは我等にも咎があったということでしょう」


 両者の会話は、そのまま東西の思想の源流に端を発する意見であった。


 東洋が自然との調和を目指すものであり、また全てを受け入れる姿勢であるとするならば、西洋における自然に臨む姿勢はまさに戦争であったからだ。


 自然は荒れ狂い、油断をすれば人々の生活を支える以上にかき乱す存在である。それ故、人々は城壁を築き、石組みの壁で生活圏を護り、そして森を拓き、自然を克服して来た。


 魔術概念においても、それは同様といえた。克服と支配の名のもとに、数々の信仰が打ち破られ、数多の神が淫祠邪教の名を冠せられ、貶められて来た。


 西洋に於いて、自分たちに対する霊存在は同調か、破壊かの二者択一である。


 だが、日本ではそうではなかった。


 日本の呪術では、存在自体を封じることは無い。調伏や寂滅といった概念も、元は修行の際の煩悩を断ち切り、その場から排斥するための呪術であったからだ。日本では、墨曜道の陰陽の概念は受け入れられ、そして禁呪の概念を持つ呪禁道が廃せられたのも、そうした背景がある所以だろう。

 

 アリシアの言葉が途絶えた。


 その沈黙は、誰もが次なる言葉を待ちかね、そして求めた。


「残る時間は、一ヶ月」


 それを耳にしたものは、皆はっと顔を上げた。


「その間に、この国に巡る霊力の源を奪い、我等の国を潤す霊泉と成す……いいわね」

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