第十五章第二節<陰の契約>

 英国と佛国領事館に挟まれた細い路地を、二人の男が悠然と歩を進めていた。


 時刻はとうに夜半を過ぎており、そんな頃合に往来を行く者などいようはずもない。潮の香りのする夏の熱気の中、道士服を纏った美輪誠十朗は、額にうっすらと汗を浮かせつつも、涼しげな目尻を崩さずにいた。


 その隣にいるのは、タロットカードを用いた幻術を操る男、アレクセイ・ファイアクレスト。


「屋敷では出来ぬ話とやら、聞こうか」


 アレクセイが足を止め、誠十朗に声をかける。


 半刻前に屋敷から呼び出され、そして夜の横濱の往来を歩かされ。日本の高温多湿の夏は、露西亜系移民であるアレクセイにとっては明らかに苦痛であった。じっとしているだけでも、肌は汗ばみ、そして空気の中にふんだんに含まれる湿気の所為で、それはいつまで経っても蒸発する事無く、シャツを湿らせていく。


 単なる暑さだけではない、日本の気候によるその不快感が夏の間、ずっと続くのかと思うと、アレクセイはそれだけで憂鬱な気分になっていた。


「助力が欲しい、アレクセイ」


「話が見えんよ」


 肩を竦めてみせるアレクセイに誠十朗は向かい合うように壁にもたれかかった。煉瓦は不思議と背中にひんやりと冷たく、誠十朗の心を落ち着けていく。


「今日、エフィリム様に次の破壊地点をお伝えしたのだ」


 その言葉を聞いたアレクセイの瞳の色が、一瞬で変化した。立て続けに二箇所を破壊してなお、目立った効果の見られぬ現状で、次の指令が下るということは何よりアレクセイの不満の捌け口としては最適であった。


 東享全域に広がる将門封印、北斗七星の話は彼も伝え聞いている。


 そしてそれが、最終的に破壊されるということも。


「場所は何処だ」


「……天沼あまぬま八幡神社。これまでとは違い、農村の中にある場所だ」


 杉並にあるその社寺は、田舎ならどこにでもありそうな、古い社殿であった。


「その場所は、どんな役割を持つんだ」


「いずれエフィリム様から知らされようが……帝都の西にある、神の力を利用した結界の中枢を担う霊地だ」


「ふむ」


 アレクセイは、神という言葉が誠十朗の口から語られたことに、いささかの違和感をもっていた。


 そも、自分たちの感覚では神といえば唯一神を意味する。強烈な一神教主義を打ち立てているキリスト教に於いては、神は絶対無二なるもの、そして神の子キリストもまた、その力を受け継ぐ者として凄まじい霊威を宿し、神格化されるに到っている。


 だが、誠十朗が口にした神とは、無論アレクセイの把握するものとは存在を別にするものであろう。


 そのことは分かっている。世界には、様々な宗教があることも、書物で学んだことだ。


 しかし、それ以前に、アレクセイの胸の中には一つの疑問があった。


 本来、神が存在すると仮定し、そして神を信望するものがいれば、宗教としての最小限度の単位は充足する。祈る者がこの国の、日本人だったとして、基督教に縋る者はやはりいるだろう。彼らにしてみれば、見た事も無いような異国の聖堂よりは、自分たちの生活の中にある祈りの場こそが、信仰を支える対象となるのだろう。


 しかし、この国にはやはり別の神がいる。


 誠十朗の語る、西の結界を司る神も例外ではない。


 そうした二律背反の現実を、彼らはどう受け止めるのだろうか。いや、自分はどう把握すればいいのか。


 妄想だと一蹴することは容易。しかし現実に、この国に張り巡らされた結界、方陣、霊力の流れ、その他諸々のことは同じ魔術を学ぶ徒として、目の当たりにして来た。


 理論こそ違えど、生み出される効果に似たものもあった。


 その現実は、熱烈な信者の信仰を根底から覆すことになりはしないか。極論を展開するならば、救いを求めるという結果だけを見るならば、それは眼前の宗教だけがもたらしてくれるものではないということだ。


 如何様な神霊的プロセスがあるのかまでは、窺い知れぬ。


 だが、結果はそういうことだ。


「神、か」


 アレクセイの言わんとしていることを、誠十朗は素早く読み取っていた。大陸で道教という大きな呪術を学んだ彼にしても、やはり同じ思いはあったのだろう。


「東洋では神は一つではない……私の学んだ教えにしても、神は無数におられる」


「不思議だな、神という言葉は」


「基督教を信ずるならば、神は一つだけだというのだろう……それならば、私が力を借りる相手は、神ではないということになる」


「まぁ、な」


「しかし、私の教えを信ずるならば……世には須らく陰と陽との二つの顔があるとしている。すなわち、神といえど絶対の存在などは、認められぬということだ」


 アレクセイはそれには答えられぬ。ただ、唇を僅かに歪めて苦笑するのみだ。


「だが私の符は鬼を祓い、父なる神への祈りは救いを導き……アレクセイのカードは現実に幻を生む」


「そういうことだ」


「話がそれたな、すまない」


 帽子に手を当てて目深に直すと、誠十朗は本題を切り出した。


「話をしよう……この国の、陰の氣を暴走させて欲しい」


 訝しげに首を傾げるアレクセイに、誠十朗は通りの彼方を顎で差した。


 じっとりと重く、息衝くような闇が凝っているその場所で、何かが動いた。


「我々は、あれをあやかしと呼んでいる。形状しがたき、名状されぬ、土着の

精霊たち……おおかた、我々の霊気に引かれて集まった、下級のものだろうに」


「消すか」


 アレクセイは、懐から一枚のタロットカードを取り出した。薄絹を纏った乙女が獅子を押さえつけているそのカードには、ローマ数字の8が描かれていた。


「その必要は無い。奴らは、人に危害は加えぬ」


「もっと分かりやすく話してくれ。東洋人の話は、どうも回りくどくて好きになれん」


 冗談めかしつつ、アレクセイは首をぼりぼりと掻いた。口元に小さく笑みを浮かべると、誠十朗は言葉を続けた。


「確実に、東享を中心にして護りの力は弱まってきている。あんな力の弱い妖がうろつけるほどに、今の力は失われつつある……だが、我々だけでは力不足なのだ」


「西洋の術をもってしてもか」


「恐らく、如何なる呪術をもってしても、この隙間は埋めることはできんだろう。それに必要なのは、膨大な人間たちの生み出す、気の力」


「それが、陰の氣というんだな」


「闇を心に強く宿す者に、いささかなりしも霊力を与えれば……その者たちはおそらく、自らの利を追い求め、いずれは自滅する」


 空を見上げ、誠十朗は言葉を続ける。力なき愚者に対して強い侮蔑の色が込められた声で。


「そうした人身御供を重ね、帝都の結界に止めを刺す」


 誠十朗の言葉を、なおも腕を組んだまま考えていたアレクセイ。


 それからしばらくあって、首は縦に振られた。


「心当たりは、あるんだろうな」


「この近隣に、大きな屋敷があると聞く……名は華神という」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る