第十四章第四節<斬殺>

 ばたばたと激しい夜風がテントの生地をはためかせる中、軍用ジープから脂肪の纏わりついた巨体を揺らしながら一人の軍人が降り立った。


 遠目にでも、すぐにわかるその体型と風貌。柿崎平八郎が向かった先は、小石川にある陸軍技術審査部敷地内にある、実習場であった。


 無数のテントが並ぶ中、柿崎の姿を認めた下士官が直立の姿勢をとり、敬礼をする。まるで脊髄に鉄骨を埋め込まれているのかと思わせるほどにぴんと背筋を張ったその下士官たちを一瞥もせずに、柿崎は両の拳を軽く握ったまま、大仰な態度でのしのしとテントの一つに足を踏み入れる。


 背後で柿崎のその行動にうろたえる下士官らに、粘質な笑みを浮かべたままテントに踏み入った柿崎の前に、一人の軍装の男がいた。


「おい、貴様……赤子は何処だぁ?」


 突然の訪問の相手にも驚いたが、その言葉はさらに軍装の男を身震いさせた。赤子とは、先日の美輪誠十朗の召喚尋問の際に、彼らの手にあったものを再び軍部にて管理するという名目で提出させたものであった。


 その命令に対し、赤子は素直に差し出したものの、続く誠十朗との会見では毅然とした態度に立腹した柿崎ではあった。


 それ以来、柿崎自身は赤子を目にしていない。しかし、赤子を取り巻く奇怪な噂は、当然彼の耳にも届くこととなる。


 この小石川の実演場へ運ぶというだけで、軍部関係者の中には何故か腕にまつわる怪我をした者が続出した。最悪腕を切断された者までおり、軽傷や火傷などを入れればその数は数十人に及ぶ。それだけの者が、しかも赤子に関係した人員に限られているという事実は、如何に軍部が否定しようとも噂として流れてしまうことは無理のないことであった。


「は、あの、赤子というのは……あの祟るという、赤子でございましょうか」


「貴様までそのような世迷言をほざくかッ」


 ヒステリックな口調の柿崎に、男はびくりと身を強張らせる。柿崎の恫喝よりも、彼の持つ権力の影響そのものに怯える男であったのだが、その差異が柿崎に分かろう筈もない。


「分かったのならさっさと案内しろ、この木偶の坊が」


 柿崎の命令になど逆らうことなど出来ず、かといって数々の不穏な噂の絶えぬ赤子の元へ足を運ぶ胆力などない。なによりも、柿崎自身、万が一の事態には保身のために自分たちを平気で楯にするだろう。渦巻く恐慌と疑念から、男はさらに自分の部下数名を引き連れ、演習場の片隅にあるこじんまりとしたテントに足を運んだ。


 その周囲には人気がない所為であろうか、どことなく空気も冷えているような錯覚があった。猛暑の中、それは通常であれば歓迎すべきことであったが、冷気の源が尋常なものではないことを、誰もが感覚で理解している。


 暑さと湿気から来るものとは別種の、魂を根底から凍えさせるような類のものであった。もしその異常な冷気に包まれたなら、防寒具をいくら重ねようと骨すら凍えさせ、また薪をいくら炊こうがそれは幻の炎であるかのように見えることだろう。


「あ、あの……本当に、入られるので……?」


「ふん、怯えておるのか、この腰抜けが」


 言葉こそ豪胆を気取ってはいるが、鈍感な柿崎にもこの異常な気配は確実に忍び寄っていた。その証拠に、彼の頬を冷たい汗が一筋伝い、握り締めているはずの太い指は少しでも力を緩めればぶるぶると震えだすに違いない。


「早く、中に入らんか!」


「しかし……その、立ち入りは」


 禁じられている、と男が続けようとすると同時に、柿崎が待ちきれぬといった様子で軍靴を踏み鳴らす。


「わしが許すといっておるのだ! さっさとせいッ!」


 たまりかねた柿崎は、男の部下の一人に蹴りつけた。まさかそのようなことをされるとは思わぬ部下は、くぐもった悲鳴と共にテントの中へと弾き飛ばされる。


 その他の部下はさすがに鼻白んだが、男は慌てて部下を追って中へと入る。


「ふん、愚図愚図しているこやつが悪いのよ」


 自分よりも誰かがテントに入ったことにいささかの安堵を感じ、柿崎もまた足を踏み入れる。


 小さなテントの中には、これといった調度品などあるはずもなかった。ただ一つ、毛布を敷き詰めた櫃のような木箱があり、その中に赤子が一人寝かされていた。


 泣くことも笑うこともせず、ただ産着に包まれたまま、こちらをじっと深い黒色の瞳で見つめている。テントの中の赤子は、あらゆる点において、普通であった。


 異常なまでに、普通であった。


 このような、何処にでもいる赤子が、祟るだと。目の前にしたものがあまりに噂とかけ離れている為に、柿崎はしばし呆気にとられた顔をしたまま、まじまじと見下ろす。


 やはり、噂は眉唾ものであったのだ。このような赤子になど、祟ることは愚か一人では生きていくことすら出来まい。どのような理由があったのかは知らぬ。が、ものも言わず、また氏素性も知らぬ赤子に責任をなすりつければ、もっともらしく聞こえると、そう感じたか。


 この程度のものに、わざわざ自分は足を運んだわけではない。


 著しい落胆は、次の瞬間には激しい怒りとなる。顔をくしゃくしゃに歪め、くるりと振り向いた柿崎の頭に、そのとき男の声が聞こえた。


<コノ程度、ト……考エタナ>


 狼狽する柿崎の頬に、暖かい飛沫が飛んだ。


 はっと我に帰る柿崎の前で、軍装の男の首が鞠のように飛ぶ。既に男の部下はみな血塗れのまま倒れており、腕や首が投げ捨てられた玩具のように転がっている。


 宙空に浮かんでいるのは、一振りの刀剱。


 柄の部分には、輝く真鍮で鶏頭の装飾の施されたその剱は、吸い込まれるように柿崎の掌の中に吸い込まれた。


 今しがた、人を斬ったばかりだというにもかかわらず、鋼には血脂一滴たりとも付着しておらぬ。面妖な、と怖れを成すよりも早く、柿崎の全身が目に見えぬ落雷に打たれたかのように、がくがくと痙攣する。


「南無……八幡、大、菩薩……」


 力の抜けた、分厚い唇からその経文を唱えたかと思うと、柿崎の巨体は剥き出しの土の上に、どうと倒れた。

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