第十四章第三節<風の噎び>

 海の見えるテラスで、ルスティアラは心地よく涼しい海風に身を任せていた。


 外国人居留区の中でも、せり上がった丘の斜面に位置する屋敷にあるテラスからは、港町が一望できる。遠い異国の地でありながら、眼下に並ぶ数々の船舶は間違いなく、母国や祖国と自分たちを結ぶもの。


 ルスティアラは右手に持ったデカンタの中の紅の豊潤な液体を呷った。


 ここは、彼女のお気に入りの場所の一つであった。


 あと二時間もすれば、日は昇ろう。しかしそのような時刻にあってすら、彼女の躰は休息を欲しようとはしていなかった。


 不思議なほどに、神経は覚醒していた。自分の制御を振り解くほど激しくもなく、また思考とまどろみを区別できぬほどに半端でもなく。ルスティアラは酒精を帯びてさらに魅惑的に火照る顔に、海風を浴びつつ、ゆっくりと思考の波に足を浸していく。


 極東に位置する、ユーラシア大陸の端に位置する島国。


 当初、作戦はもっと迅速に展開できるものと考えていた。世界各地に様々な宗教が点在すると同様、この国にも土着の信仰形態があり、そして呪術師はいよう。瓦斯の火が夜闇を払い、電力で鉄のレールの上を電車が走ろうと、呪術師がいなくなることはない。


 しかし、本来であれば根本的な破壊工作は、三月と待たずに満了するはずであった。浦賀沖に来航したサスケハナ号船上より、結界と怨敵調伏咒をまるで紙で出来た人形を相手にするかのように打ち破り、また殺戮の宴をほしいままにしたアリシアとエフィリムであれ、そう確信していたに違いない。


 だが、現実はどうだ。


 東洋の地相術師美輪誠十朗の力を借り、やっとの思いで四方を守護する神聖獣を模した霊力伝達を一つ破壊できただけで、その他には何等目ぼしい成果は上がっておらぬ。しかも、調査を進めればそれだけ、複雑に絡み合った呪術は新たな結界や霊力路となって行く手を阻む。


 一つの呪術を破壊しても、それが即座に効力を発揮するわけではない。


 しかし、これだけの緻密な計算のもとに展開されている呪術方陣を前にして、ルスティアラはかつての日本において、こうした呪的侵略をある程度想定していたのではないかという、恐るべき仮説を笑い飛ばせないでいた。


「ここにいたか」


 突然、背後から聞こえてきた低いバリトンにルスティアラは細い肩をびくりと震わせた。


「驚かせたね、これは失礼」


「大丈夫よ、少し考え事してただけだから」


 テラスに入ってきたのは、同じエノクの術を学ぶ男、ユリシーズであった。


「そっちもお疲れさまだったわね。レオとの調査はどうだったの」


「奇妙な鎧を着た、戦士と出会ったよ……幸いこちらは無傷だが、打ち倒すことは出来なかった」


「あら、珍しい」


「まったくだ」


 ユリシーズは苦笑し、首の後ろを叩いて見せた。


「この国に、まだあれだけの力を持つ死霊がいようとは……剱と鎧は実体、それを中核にある霊力の塊が、生きているときの記憶を頼りに駆動させている死霊だ」


 ルスティアラは微笑んで見せ、そして再び港町の夜景に視線を落とした。


 会話が途切れる。


 ルスティアラは、既に空になったデカンタをテーブルの上に置くと、梳られた髪の下に項から手を入れ、風を孕ませる。


「考え事、と言ったね」


 ユリシーズは手近な椅子に腰を下ろし、足を組んだまま上体を前に倒して尋ねた。


「私的なことでなければ、聞かせてくれないか」


 ルスティアラは振り向くと、手摺に体を預けて微笑んだ。一陣の風が吹き抜けていき、長いスカートが妖精の羽根のように翻る。


「私たち……無事に帰れるのかしら」


 微笑とはまるで似合わぬその一言に、ユリシーズは思わず緊張に躰を硬くする。名を呼ぼうとするが、喉の奥に何か大きなものがつかえているような錯覚を覚える。


「あれはとてもじゃないが、我々の手に負える精霊じゃなかったんだよ。ルスティアラの技量が劣っていたわけでは……」


「そうじゃないの」


 首塚での霊戦について語るユリシーズを、ルスティアラは制した。


「この国は……今、私たちと同じくらい、いやそれよりもっと……苦しんでる」


 ユリシーズは、さらに話を聞くために口を噤んだ。膝の上で指を組み、先を続けてくれるように目で合図する。


「こんなこと、考えちゃいけないのかもしれない……だけど、最近よく思うのよ」


 ルスティアラはそのままの姿勢で、首を捻って背後の夜景を見やる。


「貿易封鎖をしていたこの国は、今急速に変わろうとしてる。だけど、その混乱に乗じて私たちがしていることは、この国の力を奪い去ってしまうこと」


 ざわざわと木々がざわめく。


「でもそうしたら、この国で、人々を護って来た精霊はどうなるんでしょう。戦乱で堕落したイシュタル神のように、数々の神秘的な彫像は汚されて、破壊されて」


「ルスティアラ」


 それ以上聞かずとも、ユリシーズにはルスティアラが何を言わんとしているのか、理解できた。


「では、我々はどうなる?」


 沈黙するルスティアラの隣に、ユリシーズは歩み寄った。


「産業革命によって、私たちの母国は既に死に瀕している。水を汚し、森林を拓き、天空を淀ませる。それらは全て、我々の生活に恩恵を齎してくれた……同時に、我々は自分で自分の首を締めたんだ」


「でも、それは私たちが」


「道義的な問題を論じている時間はない」


 ユリシーズは、静かに口を開いた。


「もう、後戻りは出来ない。そして今、我々が欲しているのは、この国の力なんだ」




「ごめんなさい」


 ややあって、項垂れたルスティアラは蚊の泣くような声で謝罪の言葉を発した。


 それを聞いたユリシーズは、小さく頷く。


「疲れてるんだろう。日の出まではまだ時間がある……少し横になるといい」


 ルスティアラの返答を待たずに、ユリシーズはテラスをあとにした。


 一人残されたルスティアラは、間近に茂る枝葉のざわめきに耳を傾ける。巫術師シャーマンであれば、その中に言葉を聞き取ることも出来ただろう。


 いや、間違いなく、その中にメッセージはあるのだ。


 この国の霊的資産を、どうか奪わないでくれ、と。力の弱い精霊なら、そう懇願する以外に道はない。


 そして自分もまた、そんな存在と同じく、自分の意志に基づいて動くことは出来ない。


「ごめんなさい……!」


 思わず口に当てた指の奥から嗚咽を漏らし、ルスティアラは涙に頬を濡らした。

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