第十四章第一節<呪術合戦>

 フロントガラスを、ばたばたと大粒の雨が打ち据えていた。


 夜半過ぎ、むっとする熱気と湿気を伴って鼻腔の奥に感じられた水の気配は、半時間後には雨を結んで地表へと降り注いでいた。


 これが煉瓦と街灯と石畳で舗装された街中でないとすれば、南方の熱帯雨林をも思わせる気候である。外気の影響は、遮断されているはずの車内にもゆるりと流れ込んでくる。じっとしているだけで肌の表面は湿り、それがさらなる不快感を催させ、正常な体温調整が出来ぬゆえに発汗に頼るしかなくなってしまう。


 日本のような気候地帯に慣れぬ者たちにとって見れば、これは長い時間を掛けて緩慢に肉体と精神を疲弊させる、たちの悪い拷問のようなものであった。


 しかし、そのような中にあってもなお、誠十朗は表情を崩す事無く座っていた。


 その隣で車のハンドルを握っているのは、ブロンドの美女ルスティアラ・ヴァーヴェロイ。まだ日本の技術では作り得ぬ外国製のステアリングを巧みに操り、一路横濱に向けて車を走らせている。


 だが彼女にしてみても、この温度と湿度は歓迎されるべきたぐいのものではなかった。あからさまに表情を曇らせることはないものの、ことあるべきに溜め息をつき、目尻には時折痙攣が走る。


 その様子を見て見ぬふりをしながら、誠十朗は助手席で静かに座っていた。


「それで?」


 陸軍本部で起きた事をかいつまんで一通り話し終えた誠十朗に、ルスティアラが尋ねる。


「あんなものは、会談とは呼べんな。ただ一方的に与えられた権力に頼るだけの、木偶に過ぎんよ」


「それは大変だったわねぇ」


 話すことで、少しは不快感を紛らわそうとしたルスティアラの思惑は、功を奏していた。そして彼女自身が、誠十朗との会話を純粋に楽しんでいた。


「その柿崎って男……たぶん私、知ってるわよ」


「ほう?」


「情報収集の目的で、一度食事をしてるの。今思えば、あんなのと食事したことで私の精神が揺れてた所為かしらね、あの失態は」


 失態とは、無論ルスティアラが首塚で受けた霊的被害による昏倒、意識断絶のことであった。


 通常の病理学的な被害であれば、問題はない。ルスティアラが受けた攻撃は、ともすれば魂魄それ自体が消失するかと思えるほどの、強烈な負の衝撃であった。


 まともに直撃したルスティアラは、一時的に肉体と精神との繋ぎ目が信じられぬほどに希薄になっていたことにより、意識を失ったといえた。


 これが対人戦でおきた場合は、事態は最悪となる。


 何故なら、そうした症状に対して正しい知識を持っており、さらに霊的昏倒を引き起こすだけの術を放ってくる相手を想定すれば、そのまま放置しておくとは到底考えられぬからである。即座に肉体と精神との接続を失わせるとどめの一撃を繰り出せば、施術者は何等抵抗する事無く死に至る。それも、外傷による死ならばまだ救いはあろうが、この場合は「魂の死」であるが故、その精神はほぼ間違いなく、完全に消失する。


 ルスティアラの場合は、あの地が強力な排他的目的を持って構築された霊域であったために、そこを侵蝕する力に対して発動しただけに過ぎなかった。


 意識を失えば、術は中断される。


 そうすればそれ以上の妨害は行われず、必要以上の追撃はない。


「まあ、でもあれなら確かにやりそうなことね……特戦警を皆殺しにしろ、か」


「笑い事ではない」


「あら、どうしてよ。口先だけでも、話を飲んでやればよかったんじゃない?」


 それに対して、誠十朗は答えなかった。


 いや、そうしておけば入らぬ諍いを起こすことはなかっただろう。しかしあの男に感じられる生理的な嫌悪感が、そうした処世術すら一時的に誠十朗の感覚の上から奪い去っていたのだ。


 たとえ刹那であっても、言葉の上であっても、あの男の思い通りに動くことは遠慮する。


 そうした、半ば子どもじみた意地のようなものが、あの時の誠十朗を支配していた。


 是と頷くか、否とかぶりを振るか。


 だがその反応を示すよりも早く、二人の背後から女性の声が聞こえてきたのだ。


「お前に茶を掛けるなど……思い切ったことをしてくれましたね、柿崎は」


 はっとなる二人の表情は、しかし瞬時に緊張に引き締まる。思わずハンドルを握ったまま、ルスティアラは後部座席を見るが、その視線の向こうには誰もいない。


 見えるのは、リアウィンドウを打ち据える無数の雨粒の軌跡のみ。ただ静かに前を向いていた誠十朗は、視線をサイドミラーへと動かす。


 視線では捉えられぬ姿が、そこにはあった。


 詳細までは見て取れぬ。だが黒い衣を纏った、明らかに女性のシルエットが、鏡の中には映し出されていた。


「ご苦労でしたね、美輪誠十朗。よくぞ耐えてくれました」


「……は」


 彼女こそが、彼らを束ねる中心的人物、アリシア・ミラーカであった。


 ルスティアラでさえも、顔を合わせた事がない。いや、魔術結社<不思議の国のアリスアリス・イン・ワンダーランド>の中でアリシアを見た事のあるものは、ただ一人を除いて他になかった。


 彼女の片腕であり、凄まじき咒力を駆る女術師、エフィリム・アルファロッド。故に、アリシアの言葉は全てエフィリムを通じて、彼らにもたらされることとなっていたのである。


「それにしても、何と愚かな」


 影の肩が上下している。どうやら笑っているらしい。


「これでは、まるで与えられた木剱を振り回す子どもと同じね」


 ルスティアラは、既に運転に集中しようと視線を動かせずにいた。


 その理由は、背後から感じられる霧か触手にもたとえられるほどの、濃密な魔力であった。同じ人間が、これほどの純度の魔力を宿すことが出来るのだろうか。


「まあ、もう少しは好きなように泳がせておきましょう。今少しの辛抱を、誠十朗」


「……御意に」


「それはそうと……誠十朗、例の探索の件はどうなりました」


「まだ確定は出来ませんが、相応の成果は」


 出ております、と言葉を続けようとしたときであった。


 どん、と車を下から突き上げるような衝撃が二人を襲ったのはほぼ同時。驚く二人の耳に、やや遅れてアリシアの声が届いた。


「小賢しい、神祇調術か」


 影の指は、しっかりと何かを捕らえていた。


 白木に和紙を結んだ、御幣と呼ばれるものであった。本来は、神の衣を象徴するものであったが、和紙を様々な形に切り結べば、それ自体に神力を宿させることも出来る。


 現在、日本において神祇調術を伝えている集団は少なく、また限定されている。仏教という世界宗教が伝えられてから、日本古来の信仰体系を明確な形で独立させようという目的で生まれた、信仰一派。


 霊的国防の中枢に位置するのは、他ならぬ天皇家。つまり外国と提携し、友好条約を結んでおきながら、天皇家はそうした呪的工作によってこちらを監視し続けてきていたと言うわけか。


 影に戒められ、ぼろぼろと朽ちていく白い和紙を見ながら、誠十朗は息を飲む。


 そして、この近代化の押し迫る極東の都に於いて、今まさに呪術戦争が繰り広げられていると言う事実を、改めて知る思いを噛み締めていた。

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