間章ⅩⅢ<決裂>
きぃっ。天井から提げられている電球を繋ぐ鎖が鳴った。
さして広くもない、そしてあまりに調度品の少ない部屋。置かれているのは汚い机と、今にも崩れそうなほどに傾いでいる椅子。
その椅子に、痩身の男が腰を下ろしていた。
襟の詰まった、黒い衣を纏ったその男は、眠っているかのように微動だにせぬ。
事実、この部屋に来てからというもの、この男は一言も口を聞いてはおらぬ。腕を組むでもなく、互いの手で互いの肘を支えるような恰好のまま、男は瞳を閉じ、やや俯いた姿勢のままであった。
しかし、男が眠っているのではないことは、誰もが知っていた。言葉を発さぬ代わりに、男は時折瞼を開き、周囲の様子を探るように眼球を動かしていたからだ。
男の肌は、それ自体が焼き物であるかのように白かった。ともすれば血が通っておらぬが如き、触れれば指先は刹那で凍えるのではないかと思えるほどであった。
しかし、そこに脆弱という印象は受けぬ。男を前にした者は、ほとんどが底知れぬ深みを宿す、その瞳に背筋を震わせるのみ。
男の名は、美輪誠十朗といった。
「何とか答えんかッ!!」
突然、部屋の中に男の怒号が轟いた。
発しているのは、誠十朗の目の前にいた。言葉を用いて表現すること自体が躊躇われるが如き下卑た顔を、怒りのあまりにさらに歪め、そして噴き出た汗と脂が緩んだ脂肪の上を光らせている。
日本陸軍上級甲位将校の柿崎であった。
「貴様ァ! わしを愚弄すると、ただではおかんぞッ」
怒号がびりびりと響き渡る中、誠十朗の瞳が開いた。きりと真一文字に結ばれた唇は、一部の緩みもない。誠十朗はその視線を、ひたと柿崎に向けた。
脂ぎった瞼の奥で、ぎらつく眼が誠十朗と交わった刹那、柿崎の全身を悪寒にも似た戦慄が駆け抜ける。
たまらずに首を竦める柿崎だったが、背後には自分の部下が二人、万が一に備えて控えている。ここで、弱気な姿勢を見せるわけには行かなかった。
「特戦警の奴めらを殺せ! 皆殺しにしろと言っておるのだッ! それがどうして聞けぬかッ」
それでも沈黙を通そうとしていた誠十朗であったが。柿崎の言葉に何かを感じたのか、そこでやっと口を開いた。
「貴様が俺たちをどう思っているかは知らぬが……奴らを殺すことは我等の目的ではない」
「何をォ」
柿崎は、机の横に置かれた湯飲みの中に半分ほど入っていた、すっかり冷めた茶を誠十朗の顔にぶちまけた。座ったままの誠十朗は、それを避けられなかった。
いや、避けようとしなかったのか。
どちらにせよ、茶は誠十朗の顔と頭髪、襟元までを濡らす。
その光景に、部屋のドアの両側にいた兵士は明らかに狼狽した。
元々が、柿崎に対して忠誠心などというものを欠片すら持ち合わせてはおらぬ。もっとも、柿崎を信望する者などいようはずもなかったが。
二人は、部屋に入ってくるなり誠十朗のあの瞳を正面から直視しており、その得体の知れぬ恐怖心を充分に味わっていたのだ。この男にそんなことをすれば。
だが肝を冷やす二人の兵士の予想に反し、誠十朗は感情を表に出すことはなかった。
そして、茶をかけられた事への報復にも出る素振りもない。
誠十朗は、微かに椅子を軋ませながら立ち上がった。
「何をしておる! まだ終わってなど」
「煩い」
近寄っただけで、不快な熱気を感じ取れるのではないかと思えるほどに激昂した柿崎に、誠十朗は一歩踏み寄ると凛とした声で言い放つ。
「お前等帝国陸軍と我等の思惑が重なるところでは力は貸してやろう。しかしそれ以上のことを依頼するのであれば、それなりの礼を尽くすことだな」
「貴様も日本人の癖に、あのような輩とつるんでおるではないか! そのような奴に」
「お前は知らんのだ……この国が、同胞を戒めた闇を」
誠十朗は、衣紋掛けから鍔広の帽子を取ると、それを胸に抱くように掲げ持ち、柿崎の横を擦り抜けるようにしてドアに向かう。
背後の兵士は、誠十朗の進路を阻むことはなかった。
真鍮製のドアノブを握り、廊下に出る。
そのすぐ横の壁にもたれている一人の男が、誠十朗に気付いて顔を上げた。
加治木直武。警官の制服のまま、あの異様な眼力をもって誠十朗をねめつけている。
腕を組んだままの姿勢で、加治木がにたり、と嗤う。小さく鼻を鳴らすと、誠十朗はその横を足早に通り過ぎた。
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