第十三章第二節<花弁>

 予感は、確信へと変化した。


 皇城州域にて、男装の女性、春日梓と別れた沙嶺と圭太郎は、はじめ本所の長屋へと向かおうとしていた。しかし歩き始めて程なく、圭太郎が地脈の乱れをとある方角に感じることとなる。


 方角は北東。


 それは単なる霊脈の揺らぎであると、最初は考えていた。


 皇城の濠を伝い、呉服橋まで辿り着いたとき、圭太郎のみならず沙嶺の感覚にも滑り込んでくる、ある種の何かがあった。


 それは圭太郎の感じ取ったものよりもずっと明確な、それでいて異質なもの。


 地脈の乱れなどではない。れっきとした、そして明らかに人為的な、魔力を駆る者の存在。


 場所は、浅草寺。奇しくも圭太郎が指示した方角に合致したため、二人は急遽浅草寺へと向かう。




 二人が浅草寺へと到着したときには、既に夜半をとうに過ぎていたころであった。


 常人ならばすっかり息の上がる距離であったが、奥駆けで鍛え抜いた二人の体力、胆力、精神力は僅かに息を切らせただけで走破を成し遂げさせた。


 二人ともに、浅草寺で起きた過去の出来事は知っているのだ。その地で、再び何かの異変が起きようと知れば、動揺するのは仕方のないことであろう。


 しかし予想に反し、到着したときには既に乱れは収まっていた。


 当然ながら、境内は無人。しかしそこには、明らかに何者かが争っていたであろう跡が見受けられた。


 玉砂利は蹴散らされ、黒く湿った土が幾筋も露になっている。普通の参拝では、このようなことは起こり得まい。


 圭太郎からその事実を聞くと、沙嶺の鼻梁にかすかに皺が寄った。


「間違いないで。ここで誰かが戦っとったんや」


 圭太郎は屈み、露になった土に指の腹を当てた。ひんやりとした感触と共に、指先に黒い粒が付着する。擦ってみると、それは含んでいた水分を指先に残し、ぼろぼろと崩れた。


「それに、まだそんなに時間は経ってへんみたいやな」


 圭太郎も、知らずのうちに方言を口にしている。いつもは意図的に使わないようにしているのだろうが、それだけ彼も動揺しているということだろう。


「それに、これは俺たちの知っている方術ではないよ」


 験力の残滓ではない。


 一体、誰がここで戦ったというのか。沙嶺が顎に指を当て、ついと歩を進めたときであった。


「あんちゃん」


 背後から圭太郎に呼ばれ、足を止める。


「これ」


 足早に駆け寄ってきた圭太郎は、沙嶺の手を取ると、右の掌を開かせ、その上に何かを置いた。


 ひどく軽く、そして小さいものだ。


「それ、指で触ってみ」


 言われるがままに、左の中指でそっと触れる。艶やかな、しっとりとした感触が指に伝わってくる。


「……花びら、か?」


「うん、桜の花びら」


 沙嶺の眉間の皺がさらに寄る。この季節に桜だと。


 そんなこと、有り得ようはずもない。たとえ春に取っておいた桜の花びらだとしても、時間がたてば茶色く萎び、かさかさになっていることだろう。


 こんなにも瑞々しく、そして艶やかな花びらなど。




 しゃん。




 耳元で、微かな鈴の音を聞いたような錯覚があった。


 これだけの静寂の中、そして光を失った沙嶺であれば、たとえ微かな音でも聞き逃さぬ。しかしそんな沙嶺をも、今のは幻であったのかと疑わせ、判断を迷わせるほどに、その音は唐突であり、そして虜惑的であった。


「あっ」


 自身が声を出したとは気付かぬほどに、それは自然に唇を割って出た。


「あんちゃん?」


「……鈴か」


「え? 鈴がどうしたん?」


 呆気に取られる圭太郎を残し、沙嶺はさらに数歩進む。掌に載った花弁はなおもじっとしていたが、やがてまるで意志があるかのように掌を離れ、ふいと空中に舞い上がった。


 漆黒の中に舞う、薄桃の色彩。花弁は風に乗っているかのようにくるくると数度身を翻すように舞い、そして唐突に消失した。


「きッ……消えたで!?」


「あぁ」


「あぁって……沙嶺にも分かるんか!?」


 唇に静かな笑みを宿し、沙嶺は頷いて見せた。


「あれは、桜の花びらじゃあないよ」


「だって、さっき、あんちゃんも触ってみたろ? あれはどう見たって」


「霊気の残り滓だよ。だから、今はあとかたもない」


 ぱん、と掌を打ち合わせてみる。


 沙嶺の言葉に、圭太郎は思い出し、感覚を反芻し、そして信じられないといった顔で見返した。


 霊気の残滓。そんなものが、桜の花びらの形を取って落ちていたというのか。


 それではまるで、花びらを拾い上げるものに何かを伝えたいと言っているようなものではないか。


 そして何故自分は、事実を見抜けなかったのか。まず最初に触れたのは自分であるにもかかわらず、圭太郎はそれを普通の花びらとしか分からなかったのに。


 圭太郎に背を向け、沙嶺はそれまで花弁を乗せていた掌に、顔を俯け、囁いた。


「あれは、夢ではなかったのですね」


 ざぁっと夜風が吹き、梢を揺らす。それに煽られ、沙嶺の白銀の髪が舞い上がる。


 じっとりと汗ばんだ掌を握りこみ、圭太郎はまじまじと沙嶺の背中を見つめた。


 正体の分からない感覚が、圭太郎の中に生まれていた。この男は、ただの僧ではないと。


 だがそれを確信にまで導くことは、今の圭太郎には出来ぬ。自分と同じく、術を操る僧に感じられる気配とは違い、何か薄絹を一枚纏っているような、紗のかかった感覚が圭太郎の判断を惑わす。


 しかし、不思議と恐怖はなかった。得体の知れぬものを前にしながら、それが自分たちにとって害を成す存在ではないと、見抜いていたからだろうか。


「すっかり遅くなってしまったね」


 踵を返し、沙嶺は圭太郎の頭に手を置いた。


「帰ろうか」

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