第十三章第一節<錬金術師>
レオとユリシーズが向かった先は、日輪時から然程離れていない浅草寺。
その伽藍が夜闇の中に浮かび上がっていくと共に、二人の動悸は早鐘のように打ち鳴らされた。
あそこは、確かアレクセイが霊域破壊を行った場所。まさか、日本の法術師らが結界の再構成と浄化を行ったというのか。
だが、その仮説にはほぼ最初の段階で、二人ともに否という回答を示していた。こうした定置の浄化作用は、人の手によってどうこうできるものではない。だからこそ一定の場所が聖地とされ、人々の信仰対象となるのである。
各地に点在する宗教には、ほぼそうした聖地と言う場所が存在する。長時間に渡り、人々の同一指向の念が集まることにより、その伝説発祥がたとえ虚構だとしても、聖地は誕生する。如何に強力な術師がいたとはいえ、そうした時間累積型の浄化を瞬時に執り行うのは不可能。
だとすれば、この気は。
今まで二人が遭遇した事のない、正体の掴めぬ、捉え所のない気。それはたとえれば、未知の言語によって書かれた長大な文書を前にしたときの混迷と似ていた。
そしてもう一つ、二人を惑わせていた原因があった。これだけ近づいてもなお、感じられる気の濃度に変化がない。
通常、それは考えられぬことであった。一つの地点、人物、物体から放射される霊気は、本体に近づけばそれだけ密度が増すのが道理。だがこれはどうしたことか。
風雷神門を恐るべき速度で疾走通過した二人は、依然としてその先に霊気が集まる地点を感じながら、濃度は高くも低くもならぬ。噴出す汗を拭う間もなく、二人は駆ける。
そして気配を感じてから二十分後。二人は、浅草寺伝法院に到着していた。
激しい息遣いが響く中、夜闇に聳える伝法院。依然として、霊気は存在する。
日輪寺で感じたものと、全く同一。しかし二人は、この場所が終着点であるということを直感していた。
革靴の底がぐっと沈む玉砂利の中、二人が言葉を発しようとしたときであった。
ぼう、と虚空に浮かぶ光源が生まれた。
はっとなる二人の魔術師。既に辺りに満ちる霊気が眼前に収斂していく様を、二人の感覚は捉えている。
これが、もし西洋の霊存在であったならば、二人は即座に行動に移すことが出来たのだろう。
しかし、ここは日本。彼らにとって、遠き極東の地に住まう、日の本の妖の氣は、何処までも異質な、捉えどころのないものとして感じられた。
光源は一つから二つに、二つから四つに、次第に分割され、増えていく。
熱を発散しない幽冥界の炎は、しかしそれでも魔術師の経験の中に知識として刻まれていた。
「
それ自体に、特に強い霊力はなく、ただ視覚的な発現として霊的知識のない凡人を惑わす炎と伝え聞いていたが。
しかし、これはどうしたことだ。ウィスプ自体が強い霊気を発し、それが集中する一点の霊圧がみるみる膨れ上がっていく。
「レオ」
ユリシーズに名を呼ばれ、眼前の幻想的な光景から意識を現実に引き戻す。
「俺たちの知る世界とは魔術律が違う……心しろ」
レオが頷きかけた刹那。
闇の中に、何かが浮かんだ。
それは西洋の術師には、見慣れぬ異形。
大鎧と呼ばれる、日本独自の甲冑姿であった。中央を石畳に組み蜻蛉十文字に結んだ総角あげまきが揺れている事を見れば、甲冑の武者はこちらに背を向けている。実体化したその姿に圧倒された二人が言葉を失っている中、武者はゆっくりとこちらを向いた。本来ならば眉庇まびさしの下から覗けるであろう顔の部分には、歪んだ鬼の面がはめ込まれていた。
「
半ば引き攣った声を上げるレオ。
だがその動揺をユリシーズは一喝し、鎮める。かっと開いた口腔の奥から、くぐもった声が漏れて来たのはそのときであった。
「妖を滅し、斬り、縛るというのはお前等か?」
ユリシーズはその言葉には応えず、代わりに炎の長老の一人の名を口にする。妖魔の類の言葉には、強い咒力がこめられているとするのは、古今東西に於いて共通している。
不用意に霊存在と言葉を交わすものは、その魂までをも束縛されることになる。邪眼と共に、西洋に於いては妖魔の誘惑はもっとも忌避すべきものの一つ。
「答えずともよい。我が氣を読み、ここまで来た貴様等自身が、それを物語っておろうからな」
「我は<
ベネディクトは即座に位階を名乗り、エノク魔術の為の集中に移行する。既に彼の右手には金色の錫が、幻視により出現していた。
やや遅れ、レオもまた彼の駆る錬金術に必要な液体金属を解放している。懐に隠し持つ蒸留器の中より、擬似生命を神霊錬金術によって付与された<
「……甘い、遠き海の彼方の者よ」
もう少しでレオの水銀が、武者目掛けて地中から鋭い槍を突き出そうとしたそのとき。
武者の眼前に鬼火が集い、それらが鈍い光を放つ一振りの刀を生み出した。結像から実体化までを恐るべき速度でこなし、現れた刀の柄を武者はむんずと握ると、やおら気合と共に足下に突き立てる。
「砕ッ!」
とてつもない妖力が迸り、物質化するほどの剱気が地表を抉る。すぐ間近に迫っていた水銀は、武者から放出された凄まじい氣の奔流をあますところなく受け、四散する。
だが、それで終わりではなかった。
まるで流水のような動きで一気にレオに間合いを詰めた武者は、手に持った刀を腰溜めに構える。
レオの側が組みし易しと感じたか、それとも二対一の構図を打破したかったのか。
どちらにせよ、妖とはいえその踏み込みは、まさに武芸の達人にも匹敵するほどの素早さであり、また気配を悟られぬ業であった。
「くっ」
「その首、貰い候ッ!!」
ユリシーズの目にも、武者の太刀筋がレオの首筋に滑り込む幻を見るほどに、その剱気は殺意を帯びていた。いわんや、対峙するレオ本人であれば、その一瞬に数回に渡る死の幻影を見せられ、まるで呆然としているかに思えた事だろう。
しかし、レオもまた秘術を学ぶ者の一人。素早く意識を覚醒させ、相応の力を喚起させる。
「我を護れ、ヘルメス=トリスメギストス……
レオは咄嗟に指に挟み込んだ小瓶を一閃した。
コルクの栓が外れ、瓶の中を満たしていた僅かな液体が空中に撒かれる。
そんなもので、武者の刀など防げようはずもない。事実、その液体には何等力など感じなかったのだから。
しかし瓶を振り切った直後、レオの瞳から焦点が消失する。
知る者が見れば、レオはその精神を一瞬にして物質世界から高次霊的世界へと直結させたのだ。本来ならば、即物的な効果を追い求めることとは相反する錬金術を、どうして戦闘系にまで昇華させたのか。
その答えが、この瞬間的な瞑想であった。
物質世界に於いて、物質の科学的変質にはそれ相応の時間と労力がかかる。しかし術者の精神を高次世界へと直結させ、アイティールの満たされた元でその変換術を行えば、一部の変成はほぼ瞬時に出来ることを、彼は知っていたのだ。
錬金術の歴史は古く、現存する最古の錬金術書は、アルフェリア皇室図書館、紀元前四〇〇年に書かれたとされる、「金銀製造神術」というものである。
それから長きに渡り、錬金術はその成果がほぼ確実に大量の富をもたらす事から、人々の欲望に塗れた眼差しによって追求されることとなる。
そして彼らは一つの到達点を見せた。もしくは、見せたと思われた。
物質世界、いわゆるアッシャー世界において、古代隠秘化学が達人の域に達し、化学変化に魔術技法と意志の力とをさらに化合させ、物質の魂すなわち物質の星幽的相対物質に作用を及ぼす錬金技法を編み出したのだ。
これにより、変成は物理的事実となり、また高い可能性をもって認められうることになったのだ。
しかし時代と共に、魔術学はアッシャー世界のさらに高次の世界として、三つの位相を発見することとなり、それぞれイェツィラー、ブリアー、そして最高次の世界に於いてすら、同様の錬金術が可能であることを見出したのだ。
イェツィラー錬金術においては一般に心霊錬金術と呼ばれ、生命体を創造することができる。レオの操る錬金術とは、ここに位置するものだ。そして上位のブリアー錬金術とは精神錬金術、つまり芸術と称されるものが創造されることになる。数々の美術品の中には確実に霊力を宿した者があり、それらは芸術家の強い情熱がこの段階にまで到達した結果、残された美術品であるといえよう。
だが現在、それらは我々の世界に於いては周知の知識とはなってはいない。
理由は明白だ。高次の錬金術になるにつれ、術師らは化学のふりをすることで異端諮問から身を守っていたのである。
さらには、成功を収めた者は、その発見を純粋な西洋魔術的理念、すなわち叡智への献身の成果と見做し、万人の知るところのものへとする行為を自ら禁じたのであった。
液体が光沢を発し、深い緑色の色彩を放つ。そこに武者の刀が到達したと思えた瞬間、生じたのは硬質な金属音。驚くべきことに、レオはこの
未知の術に阻まれ、武者が太刀筋を乱す事無く退く。
だが相手は二人。レオが防禦に成功したと見るや、ユリシーズは即座にエノク咒法を展開させていたのだ。
「
声を低く震わせると、ユリシーズの体の表面を揺らぎつつ包んでいた紅の霊衣が静かに炎を噴き上げる。ユリシーズを覆う詠唱震動が、幻視された錫に到達、恐るべき速度で炎の霊力が注ぎ込まれていく。
「わが錫は、神の焔を宿らせん……ッ!」
轟、と空気が唸る。ユリシーズを中心として、寛永寺のときよりも格段に成長した炎が刹那、現実世界に現れた。
「
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