第十二章第四節<日枝神社>

 二刀流を操る男が去ってから数刻。


 境内から動こうともしない北斗が、はっと天を仰いだ。


 視線の先には、星空が輝いている。白く煙る雲がゆっくりと流れてはいるものの、天蓋を覆い尽くすほどではない。


 北斗は右手で左腕の袖を掴んだまま、その姿勢で無言の刻を送る。


 焦点は定まらず、なおも微動だにせぬ。その傍らに置いて、綾瀬は灯篭の一つの土台に寄りかかるようにして座り込み、動かぬ北斗を見やっていた。


 ああいう状態になった時は、北斗は深い思索の中に意識を埋め込んでしまっている。外からとやかく言われた程度では、北斗はそれを聞くことが出来ぬ。


 無論、肩を掴んで激しく揺さぶりでもすれば意識を現実に戻すことは出来よう。しかしそんなことをすれば、北斗は機嫌を著しく損なうことになる。それを知っているからこそ、綾瀬は北斗をそのままにして、放っておく事にした。


『私は、土御門の秘術を継ぐ一人……私一人が生き延びたところで、時代は変わりませんよ』


 戦闘開始の直前、北斗が言い放ったその意味するところは。


 北斗は、何を思いながらそれを口にしたのか。


 どうせここから動けぬのなら、その真意を少しでも探ってやろう。そう決めた綾瀬は、北斗の言葉の一つ一つを、ゆっくりと解し始めた。




 その頃、北斗の思考の大半を占めていたのはこの、日枝神社であった。


 以前、彼が単独でこの地に足を踏み入れたとき、そこには潤沢な神気が満ちていた。だからこそ、北斗は祭神の遣いを幻視することができ、その神託を受けたのだ。


 今となっては、失われてしまった二頭の守護龍を知るきっかけとなった、あの言葉。


 だがそれだけだろうか。


 日枝神社と日吉神社が、文字は異なれど同一の神社系列であるということは知っていた。その情報は、しかし北斗の頭の中ではさほど重要ではないという格付けの元、今まで脳裏に浮かぶことはなかった。


 しかし、今、北斗の頭にそれに付随する形で、一つの神社の名が浮かんできていたのだ。


 その名は日吉大社。


 遠く関西、滋賀に位置するその社にもまた、同じ日吉の名が冠せられていることからも、両者には何らかの繋がりがあるということがわかる。名が同じだが、存在する地は遠くかけ離れている。


 わからない。


 その先にある、何かに指を届かせることが出来ないのだ。


 赤坂の日枝神社と、滋賀大津の日吉大社。北斗は先入観を捨て、日枝神社、日吉神社に関する知識の全てを総動員する。かつて宮内庁の詔長官にも声のかかったことのある、北斗の社寺仏閣についての知識は、書物による調査に頼らずともそれなりの質と量があった。


 もっとも、今回のような霊的な相関図までは、北斗だけではさすがにどうにもならなかったが。


 そして北斗が知る情報とは。


 一つ、鑟川とくがわの治世の頃、「天下祭り」の名を持って瑿鬥えど城に日枝神社の神輿が、神田明神のそれと共に入ることが許されていたという事実。


 一つ、日吉大社の起源は古く、最も古いものでは祟神七年、つまり紀元前九二年に東本宮が建立されたという伝説。


 一つ、日吉大社は天海の遺した山王一実神道と深い関係があるという事実。


 天海?


 一つの高僧の名によって、かちりと東西の社寺の接点が浮かび上がる。


 天帝宗密教僧、天海。瑿鬥にその霊方陣を敷き、地霊を懐柔した法力僧。そして、天台密教の総本山は、比叡山である。





 その瞬間、北斗は髪がざわりと独りでに動くような錯覚を覚えた。


 比叡山と、日枝神社の名が酷似していることに気付いたのだ。


 読みが同じなら、漢字表記が異なれど両者には関係がある可能性が強いのは、日本においてはよくある話だ。元々、漢字という文字自体が輸入知識である為、日本人は漢字よりも大和詞であるひらがな、つまり音表記に重きを置く。


 比叡山と日枝神社が何等かの共通点を持っているということは。


 瑿鬥城の鬼門は、日枝神社のみならず、霊峰比叡山の力をも担っているということなのだろうか。


 もし、それが本当なら。


 天海は、京と東享の地を、寺社という霊地によって中継させ、神気霊気を送り込んでいるのだろうか。


 その仮説を裏付けることの一つとして、祭神があった。日枝神社の祭神、大山咋命おおやまくいのみこと。この神は、元々は力のあまり強くない、土着の神であった。農耕と密接な関係があり、平穏な生活を守護するという神が、どうしてここまでの力を有することになったのか。


 その最大の要因は、遠く平晏へいあんの世まで遡る。


 遣唐使として海を渡った和僧、最澄さいちょう。彼が開いた宗派は比叡山を総本山とする天帝宗であり、それは後世において禅宗、浄土宗、浄土真宗、そして日蓮宗という多様な宗派を生み出す源流ともなったものだ。


 ともあれ、最澄が総本山として定めた地が比叡であった以上、その地の土着の神が信仰によって得られる力を倍増させ得ることが出来たのは自明の利である。


 力弱き神は、密教の力を得て霊威を強めた。元々現世利益という考え自体が存在しなかった日本において、大山咋命は鎮護国家、増益延命、息災といった数々の霊験を操るまでに変成したのであった。


 このことにより、東享と京の都が、何らかの力によって結ばれていると見ることは可能である。


 だがそれ以上に、北斗の心を揺さぶったのは、もうひとつの事実。


 霊峰と直結しているであろう、この地においてなお、怨念を宿す剱士の太刀程度に神気結界が敗れ去るまでに、東享における神仏の加護は弱体化している。それは、すなわち京都の弱体化にも影響があるのではないだろうか。


 東の都と西の京、外国の術師は一つの都市を破壊するだけに留まらず、日本という国の霊域全般を手中に収め、徹底した破壊を工作しているのではないだろうか。


「綾瀬」


 名を呼ばれ、綾瀬はふっと顔を上げた。


「行きましょう……我々だけ帰りが遅いのでは、また皆さんにいらぬ心配をかけてしまう」


 それはお前が考え事なんざしてるからだ。その台詞をかろうじて飲み込んだ綾瀬は、愛刀の柄をぐっと握って立ち上がる。


「もう、あちらさんは帰ってんだろうな」


「そうでしょうね……急ぎましょう」


 くるりと眼前で踵を返し、境内を後にする北斗。


 幸い、日枝神社の霊域は破壊されずに済んでいる。だが、その態度から綾瀬は北斗に一抹の疑念を抱くようになる。


 スーツに包まれた北斗の背中は、綾瀬の目には、ひどく細く、薄い、頼りないもののように見えた。


 お前は、俺たちに隠していることがある。それが何なのか、お前の性格から考えれば、時が来ぬ限りは口を割ることはないだろう。


 何処か寂しげな視線で、綾瀬は北斗の背中を見やりつつ、石段を降りていった。

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