第十二章第三節<剛剱>

 男の瞳を目の当たりにした綾瀬は、ふと自分が動きを止めていることに気付いた。


 動けぬのではない。今まで、剱を手に対峙してきた相手の中で、こんな目をした輩などいなかったからだ。


 自分の気を叩きつけても、この男の瞳の前ではそれも無駄に見えてくる。


 それほどに、深い深淵。冷たく湿った空気が、ゆっくりと足下の淵から立ち上ってくるような錯覚。


 恐らく身を投ずれば、二度と戻っては来れぬような虚空。そんなにも暗く哀しいものを持っているというのか。背負っているものが、途方もなく大きく、そして重くのしかかってくるもの。


 心を引き抜かれそうになる感覚に、綾瀬はぎりと奥歯を噛み軋らせる。


「なんだって、こんなことしやがるんだ?」


 言葉を放ったとて、応えがないことは分かっている。


 眼前の男は、言葉を紡ぐだけの意識はない。しかし、綾瀬の声に反応するかのように、男の唇が動いた。


「……らせ……屑を……」


 ぶわりと風を巻き起こすほどに、男を中心として闘気が渦巻いた。


 だがそれは決して、綾瀬を圧倒し捻じ伏せる類のものではない。気の弱い者であれば、この瞬間に男の放った凄まじい陰気の流れに飲まれ、己の心が己の肉体を滅していただろう。まるで昏倒するかのように倒れ、そして二度と目を覚ますことはないであろう。


「けっ」


 だが、綾瀬は巡る剱気をもってそれを跳ね返す。斬妖の太刀を操ることの出来る綾瀬だからこそ、可能なものであった。


「北斗ォ! やばくなったらいつでも術を解けよ!」


 応えを期待するその声は、しかし空しく響く。


「……北斗?」


 まさか、先ほどの陰気に倒れたか。


 しかし綾瀬の不吉な予想に反し、北斗は立っていた。こちらを射るような眼差しで、まるで北斗自身も剱を持って戦いに臨まんとばかりに。


「いいえ」


 北斗の言葉は、はっきりと綾瀬を拒絶した。


「この男は危険すぎます……たとえこの命に代えても、結界は断じて解きません」


「馬鹿なこと言ってンじゃねえ」


 太刀を構え、綾瀬は吐き捨てた。


「てめえが死んじまったら、なんにもならねえだろうがよッ!」


 ず、と男の腕が伸び、大地に突き立つ日本刀を引き抜いた。


 来るか。


「私は、土御門の秘術を継ぐ一人……私一人が生き延びたところで、時代は変わりませんよ」




 北斗?




 その一言に、綾瀬はまるで宙空に投じられたような孤独感を覚える。


 しかしその隙は、果たし合う剱士としては致命的なものであった。気がついたときには、既に男は自分の攻撃圏内に綾瀬を捉えていた。


 眼前に立ち塞がる、巌のような巨躯。高々と振り上げられた刀が、月光を受けて鈍く煌く。


「くそッ!」


 ざっと玉砂利を蹴散らし、綾瀬は寸毫の先をもって翻す。毛ほどの間を置いて、凄まじい殺気を宿した刃が擦過する。


 咄嗟に跳びずさり、受身を取りつつ身を起こすと、唐竹割りのように繰り出した太刀を土からずぼりと抜く男の姿が見える。


「食み、散らせ……鬼よ……」


「なんだと!?」


 凄まじい圧力を持って怨念を封じられた言霊が、男の唇から漏れ滴る。咒力的なものは感じられないものの、男の周囲には邪念が淀んでいる。


 それは、男が呪術にも匹敵するほどの怨念を抱いているということか。


「おおおおおおおおッ!!」


 巨躯からは想像もつかぬほどの速度で間合いを詰め、両手にがっしりと握った太刀で綾瀬を狙う。


 対するこちらは一刀。たとえ男の斬撃を避けたとしても、既にもう一本が次なる斬撃を繰り出さんと待ち構えている。不用意に踏み込めば、二太刀の前に両断されることは目に見えている。


 しかしだからといって、中途半端な回避でいなせる斬撃ではない。


 防禦を全く考慮に入れぬ、鬼神の太刀筋。だからこそ、綾瀬は踏み込むことができぬ。


 防戦一方に回る綾瀬は、次第にじりじりと追い詰められていく。


 度重なる回避の連続は、神経と肉体双方の疲弊を誘う。


 このままでは勝機が見えぬ。力で押し、力で上を掴む綾瀬の剱術では、相手が悪い。


 それを見抜いた北斗は、一度手刀の印を解く。スーツのうちポケットから、人型に切った半紙を取り出すと、それを指に挟んだ。


「疾ッ!」


 閃くと同時に、綾瀬が態勢を崩す。


 回避のために踏み出した足に重心が過剰にかかり、関節が痛みを訴えた所為だ。


 見る間に迫り来る刀と綾瀬の間に、その半紙が滑り込んだ。


 男の眼には、倒れこむ綾瀬の姿がはっきりと見えていた。


 容赦もなく叩きつけられる剛剱。それは綾瀬の肩から胸までを、骨格と共に断絶せしめたかのように見えた。


 しかし刃の上で、綾瀬の姿は見る間に歪み、捻れ、半紙の人型となる。


 墨曜咒の一つ、「撫物」と呼ばれる禍避の術であった。


 実体の綾瀬は、そのころには既に態勢を快復させ、男の死角に入り込んでいた。


「恩に切るぜェ……ッ!」


 完全な虚を突いた攻撃の前に、男は成すすべもないかに見えた。


 だが男の左腕はまるで別の生き物のように動き、綾瀬の太刀筋を見事受け止めていたのだ。ぎり、と鋼が軋む手応えを感じつつ、綾瀬は受け流すことも出来ずに力比べをする格好となる。


「へ……マジかよ……」


 だが、それはやはり普通の野試合ではなかった。


 男の武骨な手首から刀にかけ、ずるりと紫色に光る、半透明の人の手がぞわぞわと伸びて来たのだ。それは確実に綾瀬の生気と、斬妖の太刀の気に反応し、喰らおうと伸びて来たものだ。


 もおぉおおえぇえゆぅうけええぇたぁぁあえぇえぇゆううぅけぇえっ


 それが、あと僅かで綾瀬の手首を捕らえると見た瞬間。


 ありったけの力と太刀の気を叩きつけ、綾瀬は後ろに跳んだ。一瞬の反撃に怯んだ無数の手は縮こまり、宿主の体内へと帰っていく。


 おおぉおぉぉおぉぉおぉぉおぉぉおぉんんッ


 魂を揺さぶるが如き、地霊の叫びを放ちながら、男はずしりと一歩を踏み出した。


「邪魔を……するなァ……ッ」


 絞り出されるような、悲痛な声を男が発したとき。


 右腕が振り上げられ、頭上に刀の一振りが投じられる。


 はっとなった北斗だが、遅い。撫物を放った所為で中断されていた結界への補強が遅れ、男の刀の直撃を受けた結界は大きく撓み、ひしゃげ。


 そして、盲になるほどの閃光と共に弾けた。


 ちりちりと光が舞う中で、三人は通常の空間へと戻っていた。


 涼しい夜風が過ぎる中、男は猿のように身を屈める。


 まだ、戦う気か。綾瀬が太刀を構えるが、しかし先刻までのような闘気は男にはない。


「食み、散らせ……ッ」


 男は、その一言だけを残すと、まるで鞠のように地を蹴って跳ぶ。見る間に梢まで達した男は、さらに幹を足場にし、日枝神社の境内から姿を消した。

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