第十二章第二節<神法>
たとえば、眼前に唐突に巨大な巌が出現したとしたら。
それも幻のように、ではない。
いつも自分が通いなれた道、勝手を知る家の中で。その先に続く道や部屋を考えもせずに扉を開き、角を曲がった先に、天を衝くほどに巨大な岩塊がそびえていたとしたら。
石段を登り終えた綾瀬と北斗は、さらに濃密に凝る気配に足を止めた。
参道の門の先、境内の玉砂利の上に誰かがいた。こちらに背を向けてはいるが、気付いていないはずがない。先刻の咆哮も、この男のものだろう。
ずたぼろの衣を纏い、脇を少し開くような姿勢で仁王立ちをしている。手入れのされていない髪は荒れ、伸び放題のままだ。袖から覗く腕は剥き出しのままであったが、纏いつくように絡む筋肉のうねりは尋常ではなかった。髪に隠されては見えぬが、恐らく男は猪首であろう。そう髣髴とさせるほどに、男の持つ気配は荒々しく、そして無防備であった。
「てめえ、誰だ?」
綾瀬の問いかけに、男は僅かに反応した。
しかし、言葉はない。首を捻って後ろをちらりと確認するが、それ以上は興味がないと言わんばかりに黙殺する。
そしてやおら腰から日本刀を抜き放つと、それを逆手に握る。
どうやら、自分たちに斬りつけてこようというのではないらしい。
しかし、それなら何故。
「何するつもりだ?」
それは、綾瀬には微かな気配の変調としてしか感じられなかったものだろう。しかし墨曜咒を操る北斗には、男の周囲を巡る氣の流れが唐突に変化するのを見た。
止める間もなく、男は日本刀を玉砂利へと突き立てる。刀身が半ば埋没するばかりに立てられ、大地がびりびりと鳴動する。
それは男の剱気によるものか、それとも。
おぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉおおおおンッ……!
音叉の共鳴のような、低い震動音が空気を震わす。続いて男は反対側の腰に吊った、やや短い刀を抜き放ち、それをも第一の太刀に並べるようにして地を突いた。
その行為の途端、男の周りの空間が視覚でも捕らえられるほどに、極めて不可解なほどに歪みを見せた。
「北斗、あれは」
「念が凝っています。たぶん、男はそれに憑かれている」
もおおおおええゆううけえええたああええゆうけええええかああああれええええゆううけえええぇ
声とも唸りともつかぬものが、飛来するたびに空気を奮わせる。
「憑きもの憑きか!?」
「憑かれてるというよりは、宿しているといったほうがいいでしょうか」
「どういうことだ?」
声を響かせながら、男はゆっくりとこちらを向いた。
いいいっきいいいいがああああみいいいいいいぬうううううがああああああみいいすうううううういいいいいいいかあああんんんん
「男は、自分の意志で……あの存在を自分の元へと留めているという……ことです」
大地の鳴動は、次第に大きくなってきている。
男は術師ではないし、何処から見ても同じ日本人である。しかし北斗は、日枝神社の聖域が苦悶する声を確かに聞いた。
やり方は違う。だが間違いないのは、この男もまた、日枝神社を霊的な破壊に追いやろうとしていることだ。
出来る出来ないの問題ではない。
戦慄すべきは、己の国を破壊しようという、同国の民がいることであった。
「北斗!」
「わかってます!」
二人は一気に参道の門を潜り、境内に侵入する。
間近で見れば、男の宿す気の異様さは凄まじいものがあった。ここまでの黒く歪んだ気を持っていれば、遠からず魂さえ変質せんばかりのものである。およそ生きる者が持つことは出来ぬとさえ思えるほどの、その許容量を越えているもの。
「天は我が父たり、地は我が母たり!」
右手で二指を揃えて手刀をつくり、十字を描く。これ以上、男の好きにさせているわけにはいかない。
「六合の中に南斗と北斗、三台と玉女あり! 左に少陽青龍、右に少陰白虎、前に老陽朱雀、後ろに老陰玄武、前後を扶翼す……急急如律令!」
一言ごとに手刀が縦横に閃き、四縦五横咒を刻む。そして最後の一音と共に、左上から右下に、気合と共に斜めに一閃した。
墨曜咒に伝わる、もっとも一般的とされる結界咒。四神の力を擬似的に見立て、その中央に当たる部分を清浄無垢なる空間とするのだ。
本来は邪を払い吉祥を呼び込むための方術ではあったが、こうして使うことにより、邪念の活動を最小限度に押さえることが出来る。
霊域の破壊を何としても止めねばならぬ今の二人にとってみれば、それでも充分過ぎるほどの効果であった。
これで、境内の中に結界が形成されたことになる。男は霊的破壊を続けることが出来ず、まずは結界を破ることが必要になるのだ。
「山末之大主命、鳴鏑神、日枝山王権現大山咋命、わが霊縛神法を助け給え!」
きん、という甲高い音と共に、結界が結ばれる。
北斗は己の学ぶ墨曜咒に重ね、天神地祇の力によって結界の霊力を補強したのだ。
ここは神社。神の力を借りて霊法を行うには、うってつけの場所だ。
結界を結んだ中で、男と対峙した綾瀬は抜刀する。男を巡る気とはまるで違う、浄化の念を宿す太刀が呼応するかのように煙を放ち、露を結ぶ。
同じ剱気、しかしその属性はまるで違うもの。怨嗟の気を持つ男の気はその流れを止め、まるで綾瀬の剱気に対抗せんばかりに渦を巻き、男を護る。
不気味な地鳴りはいまだ止まず、そして人の声のような唸りもまた、一向に途絶える気配もない。
「てめぇの相手は、この俺だ」
こぉ、と男の唇の奥から呼気が漏れる。
襤褸をはためかせ、男は綾瀬に向き直った。血腥い夜風が二人を包んだとき、綾瀬は男の瞳にある、えもいわれぬ空虚な深淵に気付いたのであった。
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