第十二章第一節<斬妖>

 鬱蒼と茂る梢は、新緑を湛えながら噎せかえるほどの草いきれを辺りに漂わせていた。


 吸い込めば、鼻腔の奥にまとわりつくような、濃密なそれ。しかしその芳香はまさに生命が謳歌する象徴とも言えた。


 夜闇の中、蝉の鳴き声が波のようにその只中にいる者へと押し寄せる。むっとする熱気も、ただじっとしているだけで汗ばんでくる肌も。


 この中にいると、不思議な一体感を感じる。


 人もまた、生きとし生けるものの一つなのだ。蝉も、樹木も、そして夜闇に潜む無数の蟲たちも、豊穣な土壌に蠢く無数の微生物たちも。


 その中央に存在する社が神聖な存在であるということは、恐らく呪術に造詣が深くなくとも感覚では理解できよう。


 かつては、呪術こそが先端技術であった時代もまた、存在した。それを前時代的とか、未開の文化などということは容易い。理解できぬものを蛮族として一括りにし、それを現在の自分たちの持つ合理性という名の武器で蹂躙すればよいのだから。


 しかし、今の自分たちは、そうした呪術の世界を生きた先達の遺した文化の上に胡座を掻いているだけなのだ。


 呪術は、確かに存在する。過去の世界も、そして連綿と続く、現代の世界にも。




 東享の中心部に、これだけの樹木が群生する場所などそうあるわけがない。ここも、神社などという土地でなければ、まっさきに開発が進んで伐採されてしまっていたかも知れぬ。


 だが、政府はそうしなかった。


 それは神社だからという理由だけではないだろう。廃仏毀釈、その政令を提示した新政府の意向から考えれば、まず考えられぬ。


 となれば、北斗の仮説どおり、この場所は皇城の裏鬼門守護を担う聖域であるのだろう。


 樹木のドームに包まれた石段を踏みしめながら、上っていく人影は、北斗と綾瀬。


 皇城から、赤坂の日枝神社まで。徒歩で向かった二人は、既に日が落ちてしまったあとで、この場所に到着した。


 人気はない。無人の石段を、二人分の足音が、ただゆっくりと昇っていく。


「なあ」


「……なんですか?」


 涼しげな顔で隣を進む北斗の横顔をまじまじと見つめる綾瀬。


「その恰好、暑くねぇか?」


 熱気の中、シャツの首元を少しも緩めずにネクタイまで結んでいる北斗に、まるで珍獣でも見るような視線を送る。


「別に、さほど気にはなりませんが?」


「あぁ、そうかい」


 肩を竦め、無言に戻る綾瀬。しかし言葉が途切れることはなかった。


「沙嶺と圭太郎は、何か見つけられるでしょうかね?」


 その言葉は、感覚的なものだけでは北斗ですら、皇城周辺から霊的なものを感知できなかったことを意味している。


「天皇家の結界か?」


「あるいは、それに類するものですね」


 見たところ、周辺に霊的な流れはなかった。


 瑿鬥えどから東享へと移行する際に、もしかすると天皇家は何等自分たちに有利な呪術を施していないのではないか。まずは鑟川とくがわの霊気の流れを遮断し、それからゆっくりと取り掛かる算段だったのではないか。


 そう思えても仕方のないほどに、皇城の周辺には何もなかった。


 だが、北斗はその案を端から否定している。理由は、東享遷都後の、今上天皇の動向にあった。


 明璽天皇の生まれた日付は、嘉永五年九月二十七日。そして天皇が瑿鬥城へと足を踏み入れたのは、明璽二年の三月二十八日。


 嘉永五年を暦で見れば、の年に当たる。対する明璽二年は巳年。年計算では暦は狂うものの、さらに細かい暦を見れば、その理由は明白となる。年、月、日、そして時間の干支は別に存在するのである。


 それでは、東洋占星術にて殊に重要とされる、日の干支で計算すればどうなるか。


 天皇の生まれた日の干支は、己巳つちのとみ。明璽二年は巳年だけでなく、五行陰の分類である己の属性。同じく三月二十八日も、悉くが己巳という、悉く同一の干支に相当する。


 これを偶然と見るか、必然と見るか。北斗はこの歴史的事実から、天皇家が暦道に関する呪術のエキスパートを抱えているという仮説を取っていたのだ。


「何はともあれ、どこかに霊的なものが存在していることだけは事実です」


 じゃり、と靴の底で砂が鳴る。


「西洋人たちの、妖しげな術に対抗できるようなモンだといいけどな」


「私はあれだけ天皇家が固執していた、京の都を捨てたことのほうが、疑問ですけどね」


 夜闇の中に、巨大な鳥居が見えてきた。


 もう少しで、日枝神社の境内に到着する。あとは日枝神社での霊気の流れを確認し、それから。


 思考を続けようとしていた北斗の意識が、何かによって強制的に現実に引き戻される。


 ざわざわと夜風が梢を揺らす。しかし。


「……待ってください」


 足を止めた北斗が短く、綾瀬を制する。


「あ?」


「この先……誰か、います!」


 怒号がびりびりと大気を震撼させる。


 声の主はない。


 声は、遥か先から聞こえてくる。ここからは相当の距離があるにもかかわらず、その声量は確かに二人の鼓膜を鳴動させた。


 だが、それだけではない。それを感じ取ったのは、北斗ではなく綾瀬であった。


「……くそったれ」


 この声を掻き消さんばかりに、綾瀬の腰から異音が響く。


 正体は吊った鞘に収められていた刀であった。指一本触れていないにもかかわらず、まるで生きているかのように柄を揺らす刀。


「ちっ」


 綾瀬は舌打ちをすると、右手で柄を握り、ほんの僅かだけ、刀身を引き出す。


 途端、北斗を威圧せんばかりの剱気の霞が鞘から噴出してくる。


 斬妖の太刀、<胡蝶>。それを持つ綾瀬は、今まさに自分の躰を流れる血の中に脈動する、声を聞いていた。


 遥か古の世、墨曜咒術師とともに妖魔を打ち伏せた対妖魔式特務武官集団、童子斬どうじぎり。


 この東享で自分自身、妖に遭遇するのははじめてだ。


 まさか、これほどの反応を自分が見せるとは。


 眼前から感じられるのは、世の理を外れた外法の輩と、裂帛の剱気。


 間違いない。先にいるのは、外法を駆る剱士だ。


「行くぜ?」


 絡みつく陰氣を振り払うようにして、綾瀬は石段を駆け上がっていった。

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