間章ⅩⅠ<吹上御所>
黒く湿った土から、むっとする湿気と共に独特の匂いが立ち上っている。
幾重にも折り重なり、地表を覆っているのは、笹の葉である。それらは風が過ぎると乾いた音を立て、葉擦れの音色を奏で、風雅な空間を醸し出す。
だがざわざわと幹を揺らし、青緑の若々しい短剣のような葉を擦り合わせているのは、むっとする熱風だ。
それだけではない。その風には、もし吸い込んだのであれば鼻の奥にこびりつくようにして残る、ある臭気が含まれていた。
ざっ、ざっ、ざっ。
庭に、一人の侵入者がいた。
滋養が豊かな土壌を踏みしめているのは、黒光りする軍靴。カーキ色の軍服には、ところどころに黒い染みが飛んでいるようであった。帽子の固い鍔の陰に隠れるようにして潜む男の瞳が、刹那覗いた。
どんよりと濁る沼の光。およそ生ける者であれば持ち得ないであろう禍々しい光を、軍装の男は抱いていた。
男の右手には、抜き身の日本刀が提げられていた。刀身は血糊と人脂とで斑に濡れ、いまも忌まわしき滴りが地に落ちる。血と脂の混じった雫が乾いた笹の上に落ちるたびに、男の足下では何かがざわめいた。
影の中に、何かが潜んでいるのだ。それが血臭に歓喜しているのか、それともさらなる殺戮を男に求めているのか、無数の小さく不気味な手が伸び上がるようにして男の脛を掻く。
ここは皇城内吹上御所、中庭。
本来であれば一般人の立ち入りは固く禁じられているその地に、男はいた。
警備の者をことごとく恐るべき太刀筋にて斬り殺し、足を踏み入れた先は、この竹林。尋常ではない様子の男に、真正面から湿った風が吹き付ける。
飢えた獣を思わせる、首を下げた前傾姿勢の男から、帽子が煽られ、後ろに飛んだ。そして露になった男の額には、奇妙な紋章が烙されていた。知る由もないが、その紋章はエフィリム・アルファロッドが英霊召喚の際に用いた紙片に描かれているものと同じ。
中庭の中央付近に辿り着いた男は、足を止めた。
ふと見れば、軍服の襟元や袖口、またズボンの裾などから白い煙が立ち昇っている。
苦痛を感じている様子はない。しかしこの地に、凄まじい気の流れが集中して通過していることを、それは意味していた。男は血染めの手袋のまま握った日本刀を逆手に持ち返ると、耳を聾せんばかりの咆哮と共に地に突き立てる。
打ち込まれた途端、積み重なっていた笹葉が全て、旋風によって吹き飛ばされる。黒々とした土が露になり、さらに風圧が上がる。男を中心とし、みるみる加速度的に強まっていく風圧は、男の顔を歪めるほどの衝撃を伴ってびょうびょうと吹き荒れる。
獣の唸りのような、重低音を響かせる男の喉。びしりと唇が割れ、頬が裂ける。ほぼ物質化したも同然の風圧と、真空領域によって、人体に破損が生じ始めている。
既に軍服のそこここには、切り裂かれながらもほころびが生じている。
このまま、男の躰が崩れるかと思えたとき、風が止んだ。
土の層すらも風に飛ばされ、その下に隠されているものが露になっていた。
あれだけ巧妙に隠されながら、朽ちる事無く存在し続けていた木戸が、そこにはあった。床板のように、地面の中に嵌めこまれた木戸。
男はそれにつけられた鉄環に指を絡め、ぐいと引く。みしみしと蝶番が軋みながらも、木戸はゆっくりと開いていく。観音開きになるはずの木戸であったが、片側を開くだけで、そこには人一人が充分に身を通すだけの空間があった。
男は現れたその深淵を垣間見、唇をにぃと吊り上げる。
白く凝るような煙が、深淵からゆっくりと這い出て来たのはそれからすぐであった。それは蛇のように地を這い、男の足を絡め、ゆっくりと広がっていく。
高濃度に圧縮された、霊気であった。
その白い霊気に抗うような形で、男の影から伸びる無数の手が何かを掴み、千切り、掻き乱していく。
様子をじっと睥睨していた男は、手に持った日本刀で、その煙を貫こうと切っ先を足下に向けた。そして今まさに、虚空の深淵に突き立てようとした、そのとき。
「南無……八幡、大、菩薩……ッ」
絞り殺したような、男の声が深淵から沸き起こる。
その途端、軍服の男は見えぬ雷に打たれたかのように痙攣し、硬直し、どさりと地に伏せた。半ば笹葉に埋もれるようにして倒れた男の鼻腔と涙腺から、どろりと濁った血液が伝う。
それが最期の揺らめきであったのか、男の額の紋章は一度青く光り、そして消えた。
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