第十一章第一節<風水霊場>

 大手町二丁目にある常盤橋。印刷局がすぐ近くにある、帝都の中心部に位置するその場所は、もうすぐ夕刻になろうとしている時分でも忙しく人や馬車が行き交っている。


 そんな中で、僧形の男を交えた沙嶺らは、非常に目立って見えた。


 警視の連中に見つかる危険をおして、まだ日のある時間にこんな人通りの多い場所に赴いたのは、わけがある。


 長屋での結論は、まずはこの皇城周辺の霊的結界の存在を探ることにあった。これだけ、瑿鬥えどや東享の市街地の中に点在する寺社仏閣を利用した代物があったのだ。その中心に位置する元瑿鬥城、現皇城が剥き出しのまま晒されているということは、考えにくい。


 既に、その仮説を裏付けるような形で、浅草寺と寛永寺を利用した、青龍守護の存在があった。最早二つの寺社は霊的破壊を受け、本来の機能を持つ事はなくなっていたが、それは同時に瑿鬥城を護る何かの力の源をも意味していた。


 そして、今。


 皇城を取り巻く内濠という存在は、今の彼らにとって非常に重要な意味を持つものであった。風水に於いて、水というものが持つ力は計り知れないほどに大きいものだ。




 気は風に乗ずれば散じ、水に隔てらるれば即ち止まる。

 古人はこれを聚めて散ぜしめず。

 これを行ひて止めるあり。

 ゆえに、これを風水といふ。




 郭璞かくはくと言う人物が、著書である葬書の中でそう記しているとおり、風水では水は非常に珍重されている。そもそも、風水理論において山は動くことがないために「陰」の象徴であり、河川は流れ動くのでその性質は「陽」と見なされる。つまり、山からの生気が水に溶け込むことで陰陽が揃い、そこからあらゆるものが生まれ出でると考えられているのである。


 西洋魔術においても、水は記憶媒体の一つとして考えられる部分がある。よく水死者のある水辺には魔が宿るといわれるが、それは水死者または自殺者の陰気が水に宿り、淀むためだとされている。水鏡なども、そうした水に残された記憶を引き出したり、自分の幻視映像を水に記録したりする所作の一部とされている。


 慎重に身を屈めた沙嶺は、指先を第一関節まで、たゆたう濠の水に浸した。そして待つこと数分。壮麗な横顔を毛ほども崩すことなく、指は引き抜かれた。濡らす水は指先で珠を結び、水面に戻り、波紋を生む。


「まだ、霊気は残ってるよ」


「そんなこと言ったって……消えちまうのは時間の問題なんだろ?」


 哀しげな表情を見せる圭太郎の呟きに、沙嶺は予想に反して首を横に振った。


「いや、そうじゃないよ……霊気はかすかだけれど、決して淀んでるわけじゃない」


「なんだって?」


「どこかから通じているというわけ……ですか?」


 綾瀬の言葉を制し、北斗が先を続ける。


 しかしそれは、通常では考えられぬことであった。瑿鬥の街の青龍は隅田川によって司られていた。しかしそれらの霊気を伝達する霊的径路である二つの寺社を破壊された今、この濠に繋がる道はない、はずである。


「そうだね……その道が何処かまでは、分からないけれど」


「よ……っと」


 沙嶺の腕を掴み、綾瀬が橋の上まで沙嶺の躰を引き上げる。


 濠に霊気が通じていることは、無論喜ぶべきことであった。それはつまりこの濠の内側の地に清浄な気を運び、守護を担うものであるのだから。


「そのことを、天皇家は知ってるんでしょうか……」


 顎に指を当て、北斗は眉間に皺を寄せて呟いた。


 そのとき、蝉の声がふっと遠くなったような錯覚を、その場の全員が覚えた。それ故、北斗の言葉はやけに明瞭に、鼓膜を震わせたのだ。


 天皇家が、自分たちの御所を守護するそうした呪術的構造を理解しているのか。


 その言葉の意味が分からず、視線が北斗に集中する。


「いやね、あれから少し調べてみたんですが、実は……」


「もったいつけねえで教えろよ」


 綾瀬が苛立つような口調で先を促す。


 本所の長屋では、宝慈が一人残っていたからだ。念のため、雅を一人にしておくわけにはいかない。当初は北斗が残ると言い出したが、宝慈の曼華経結界は下手な呪術などではびくともしないほどの強固さを誇っている。また、宝慈は棒術の心得もある。いざとなれば、雅一人を護りきることはできると思えた。


「実は、新政府は皇城周辺の濠を埋め立てる土木計画に着手しているというんですよ」


 濠を埋める。その言葉に、一堂は敏感に反応した。


 濠とは前にも記したとおり、水による結界を意味する。それを遮断するとは、流動体である水を封じ、本来の働きを妨げることになる。せっかく天海上人によって完成の域に達している結界陣を、日本政府自らが破壊するなど、狂気の沙汰だ。いや、それともそうした先代の残した呪術的遺産を、新政府は知らぬのだろうか。新政府のみならず、天皇家ですら入手できぬ極秘のうちに隠蔽された呪術工作なのだろうか。


 先刻の北斗の呟きは、そうした意味を含んだものであった。


「そんなことしたら、結界が」


「ええ……ですが、まるきり意味がないということでもありません」


 北斗はずっと先まで続く川面の彼方に、視線を投じた。


「新政府や天皇家が、そうした呪術を前時代的なものと見做している可能性は確かにあります。しかし、新政府の行為を新たな呪術と解釈した場合……鑟川家を守護した結界を破壊し、今度は自分たちに都合のいい呪術を新たに施すという意味にも取ることができるんですよ」


 武家勢力の象徴の地に、公家である天皇家が足を踏み入れる。長きに渡り、神代より受け継いだ神霊の血を引く血族を忌み嫌うが如く避け続けていた憎き鑟川の居城に。


 本来ならば、それは考えられぬことであった。


 事実、大久保利通は新政府発足に当たり、大阪遷都を提言している。京都に近く、また湾岸港にも近接している交通の至便の地。合理的な解釈によってしても、大阪遷都は確実と思えた。


 しかし現実には、その提案は退けられることとなる。


 新政府に名を連ねる者たちの中で見れば、東享遷都を提言したのは前島密まえじまひそか大木喬任おおきたかとう江藤新平えとうしんぺい。それより以前に東享遷都を主張した人物がいなかったわけではない。国学者である賀茂真淵かものまぶちは彼の著書の中でこう述べている。


「(今の京都は天皇にとって)いとわろき所なり、さて思うに皇都は東にうつされましかば、天か下平らかにして、御いきおい盛になりぬべし」


 また彼だけではなく、江戸期の農政学者の佐藤信淵さとうのぶひろもまた同じ意見を、著書『宇宙混合秘策』において展開している。彼に到っては、天文、地理、暦算、兵学にまで通じた神道思想家。東享の持つ霊的な力の存在は、これまでにも幾人もの人間によって謳われて来たものであったのだ。


「鬼門封じが施された霊場を、濠を埋めることで完全に自分たちの力のままに操る。その対応を見ても、天皇家が呪術に疎いとは考えられませんね」


 ぱんぱん、と二回掌を払うと、北斗は夕焼けの空を見上げた。


「では、私はこれから今一度、日枝神社へと行って来ます……ご一緒していただけますか、綾瀬」


「な、なんで俺が」


 色めき立つ綾瀬を無視し、北斗はにこりと微笑んだ。


「じゃあ、俺らはもう少し、見回ってから帰るぜ?」


「分かりました」


 小さく会釈をすると、北斗は笑みを崩さないまま、綾瀬の袖を掴むと否応なしに引き連れ、人ごみの中に消えていった。

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