第二部  帝都、紊乱せり。

間章Ⅹ<鎮魂結界>

「されば神聖なる霊の名前と力に於いて、われ汝らを召喚す……汝ら、虚空の物見の塔の天使たちよ!」


 薄暗い部屋である。部屋の壁は全て、紫色の絹で覆われている。


 窓はなく、また扉もない。存在はしているのだろうが、覆い尽くしている絹の所為でその所在がわからぬのだ。もし本当に一切の出入り口がないのであれば、この部屋の中に居並ぶ者は、生きながらにして閉じ込められた事になってしまう。


 そこかしこに点された金色の燭台の炎が揺らぎ、その度に部屋に点在する数々の奇怪な祭壇や旗、そして長衣を纏った者たちの姿の影を壁面に映し出す。磨きぬかれた黒曜石の床には、鋭利な刃物で刻みつけられたかのごとき、見事な西洋の魔法陣が刻印されていた。


 四方に六芒星を内在する巨大な円。その中心には白亜の祭壇が設けられ、純白の布の上には産着を纏った赤子の姿があった。


「われ汝らに神聖なる名前、イェヘシュア・イェホヴァシャに於いてこれらの責務を命ず、この天球を護るべし!」


 室内にいる者のうちの数名は、赤子の周囲に蟠る何かの気配を敏感に感じ取った。定地点での儀式を必要とするほどに、強固な鎮魂結界。


 赤子は陸軍によって雅から拉致された上、ここ横濱まで運ばれていた。柔らかい指を軽く握りこみ、赤子はこのような異常な場所においてすら、泣き声一つ上げぬ。ただその漆黒の瞳を動かしながら、自分の周囲の様子をゆっくりと探っているようであった。




 儀式の段階が一つ、完結した事を示すかのように、詠唱者はフードを払う。


 その下から現れた顔は、豊かなブロンドに飾られた女。かつて首塚で一方的な敗退を喫し、魂魄に致命的な霊被害を受けたエノク術師、ルスティアラ・ヴァーヴェロイであった。


 ざわめきが、見守る下位術師らの間をすり抜け、漂う。彼らには、この赤子が一体どのようなものであるのか、知らされてはいない。


 いや、ルスティアラ自身でさえ、その本質を看破できるまでには到っていない。だからこそ、これだけ大規模な儀式魔術を執り行ったのだから。


 ルスティアラは頭を巡らせ、灰色の長衣を身につけた、もっとも位階の低い術師らにこちらに来るよう、命じる。恭しく一礼し、ルスティアラの元に三人の初期位階者ジェレーターが集った。


「赤子を取り巻く力、あなた達に見えますか?」


 問いかけに、三人のうち二人は哀しそうな顔で頭を横に振る。しかし、残る一人が、熱病に喘ぐ患者のような、異常な気配を宿した目で赤子をじっと見つめていた。


「悪魔のような顔が、見えます……雄牛のような……」


 その回答に、ルスティアラは満足げに頷いた。


「なら、自分で確かめてみることね。うまく赤子の正体が分かれば、それだけあなたの実力も増すというもの」


 促された若い男は、一度喉仏を上下させて緊張のために口中の唾を飲み込んだ。それからおずおずと、そして徐々にしっかりとした足取りで、初期位階者の男は祭壇へと近づいていく。


 男ははじめてこのような、儀式魔術の中枢に近づいたことによる興奮と高揚、そして得体の知れぬ恐怖で卒倒寸前であった。しかし一歩一歩を確実に踏みしめるように、初期位階者の男は進み、ついに祭壇をすぐ前にするところまで辿り着くに到った。


 自分の眼前で、むずがるように赤子が蠢きながらこちらを見上げている。


 一見すれば、どこにでもいるような、乳飲み子だ。しかし、先刻は確かに何かの気配を感じた。


 力が足りぬ故に、霊視の精度は一定しない。今こうしているとはいえ、若い初期位階者は何も感じなくなってしまっている。


 あの、鬼面の映像はなんだったのか。自分が今までに見た事もない、強い念と怒りが宿ったその貌。


 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。初期位階者は意を決し、恐る恐る赤子に手を伸ばした。


 妨害はない。気配の変質もない。そのまま指先は次第に赤子に近づき、そして後もう少しでぷっくりとした頬に触れるという、刹那。


 初期位階者は、腕に強い衝撃を感じた。何かで殴打されたような感覚が肩までを走り抜け、次いで灼熱が肘を包み込むような刺激を受ける。


 最初、初期位階者は一体自分の身に何が起きたのか、重度の混乱の所為で理解できなかった。だが周囲で見ていた者らにとって、それは戦慄すべき出来事であった。


 ちょうど至近距離にいた初期位階者の死角になる場所で、急速に赤子の周囲の霊気が凝ったのだ。


 それは瞬時に一振りの東洋刀剣と化す。塚の部分に、真鍮のように鶏の頭の装飾が施された、奇妙な刀剣。刃には一点の錆びも曇りもなく、魔性の如き鋼の輝きを持つそれ。宙空に静止しているそれは、出現と同じく唐突に閃き、赤子に伸ばされた初期位階者の腕に斬りつけたのだった。


 刃はいとも容易く男の腕を裂き、骨を切断した。


 あまりに鮮やかな一太刀に、切断面からは鮮血が噴出すことはなかった。ぼとりと床に落ちた腕を前にして、初期位階者はようやく身に起こった現実を突きつけられる。意味をなさぬ言葉を悲鳴として吐きながら、狼狽のあまりに床に倒れ、ほうほうの体で逃げ惑う初期位階者。


 その光景の一部始終を冷ややかな瞳で睥睨しながら、ルスティアラは唇を微笑ませた。


「ふふ……結界の中でさえ、これだけの咒力を持つ何かが憑いているのね……」


 刀剣は既に消失している。しかし赤子を包むように、今では陽炎のような何かが立ち昇っている。




 そして、陽炎が何かを形成した。


 人の顔。鬼の貌。それと目が合った瞬間、ルスティアラの全身が落雷に打たれたかのように痙攣し、硬直する。


 唇は、うわ言のように、一つの名を呼んだ。

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