第十章第二節<陰謀>
雅の決意ある言葉を前にしても、綾瀬は首を縦に振ることを躊躇った。何故なら、あのときの血塗れのまま微動だにしない、夏の朝でありながら指先まで冷え切ったままの雅が今も瞼の裏から離れようとしないのだ。
雅ほどの、拳銃の手練れを一刀のもとに斬り伏せたその腕が、一体誰のものか。今に至るまで、昏々と眠り続けていた所為で、未だに相手は杳として知れぬ。
「……だけどよ」
「いいよ、話を聞こう」
綾瀬の背後で、坐したまま沙嶺が小さく頷いた。
「おい、んな適当なこと……」
「大丈夫。彼女の氣の流れは整ってきてる。峠は越えたんだろうね」
錬氣の術。もっぱら古武道に見られるその流儀だが、端を発しているのは
由緒ある
沙嶺の場合、光を失った彼にとって氣は常人の視力にも匹敵するほどに信頼するに足るものなのであった。
女か、男か。
起きているのか、眠っているのか。
嘆いているのか、憤っているのか。
視覚に頼るよりもずっと多くの情報を、沙嶺はそうした氣の流れを読むことで知覚していた。それはあるいは、武道家が相手と対峙したときに僅かな躰の捻りや体勢などから、次なる攻撃を読むことにも通じるものがあった。
元々、万葉仮名によれば「いき」という言霊を形成する文字配列は数多く存在する。元来の意味である「息」のみならず、「息吹」「氣」「神気」「水火」などは全て「いき」という音を表す表記となる。
つまり、それほどに日本神道における息、すなわち呼吸は重きを置かれていたということである。
「顔色がよくなっていますからね……沙嶺の言葉に間違いはないでしょう」
北斗は微笑みながら立ち上がり、しかしからりと障子をさらに大きく開いた。
「しかしまだ傷は癒えていません。話は、布団で休んだままでも伺えますからね」
その言葉によって、一堂は雅の寝室に座を移した。
最初、数日に渡って眠り続けていたために部屋にこもっていた雅の体臭と汗の匂いに圭太郎などは居心地が悪そうではあったが、川に面した戸を開くと程なく空気が入れ替わり、匂いも消えていた。
「今まで、話すのが遅れて御免なさい」
神妙な顔つきで頭を下げたまま、雅は蚊の泣くような声で、しかしはっきりと告げた。
「あの捨子、攫われちゃった……」
「ンだとぉ?」
氏素性の知れぬ捨子を、一体誰が欲しがってるというのか。事情を知らぬ者が聞けば、珍妙に思えるのも無理はない。
「私が襲われた夜、赤ちゃんを奪われたの。攫った相手は、帝国陸軍の柿崎……理由は分からないけれど、それは確実」
「……北斗のあんちゃん?」
圭太郎に問われてもなお、北斗は人差し指を唇に当てたままじっと黙考していた。
「軍隊と子どもと、どう繋がるんだよぉ」
「恐らく、表立った理由ではないよ」
そうでないからこそ、夜間の奇襲によって赤子を奪い去ったのだ。沙嶺の言葉に、綾瀬が半ば立ち上がりかけるほどに躰を起こす。
「あの銃ブッ放すだけの野郎どもが、なんで赤ん坊なんか欲しがるんだよ!?」
「いささか強引ではありますが、考えられないことではない……ですね」
「お、なんか分かったんか!」
喜色満面に顔を寄せる圭太郎に、北斗は熟考しながら、一つずつ慎重に言葉を選び、話を始めた。
「陸軍がどのような意図で赤子を欲しているのかは分かりませんが、しかし近年になって、陸軍は海外士官を招いたり、外国の軍隊の様式を真似たりしています」
つまり、その流入に乗じて、今回の外国人術師に関係する人間が流れ込んできている可能性が強い、ということであった。
「じゃァ……加治木の野郎の暴走も、軍が関係してる可能性もあるってェ、ことだな?」
綾瀬の怒気を孕んだ言葉に、北斗は頷いた。
「それから、もう一つ」
仰向けに寝ていた雅は、痛みを堪えていたために溜めていた呼気と共に、言葉を吐いた。
「奴等は……鬼を使ってるんだ」
「なんやと!?」
咄嗟に反応したのは圭太郎であった。
「気を失う直前に、私、見たの……柿崎のすぐ側にいた男に、私に斬りつけた鬼が戻っていくのを、見たのよ」
話が終わり、雅は再び薬による眠りに落ちていった。
これ以上、推論をぶつけ合っていてもしようがない。話し合いは解散となり、綾瀬は長屋の土間に降りると、戸をからりと開けた。
既に夜は更け、正面のとおりに人家はない。袖から腕を抜き、組んだままぶらりと散歩を決め込もうかとした綾瀬の背後から、呼びかける少年の声がした。
「よ、あんちゃん」
「……またテメェか」
顔をしかめる綾瀬とは対照的に、圭太郎は積み上げてあった古い樽から反動をつけて飛び降りた。
「またってなぁ、心外じゃねえか」
「俺ぁガキが苦手なんだよ」
「へへん」
頭をぼりぼりと掻きながら、圭太郎は綾瀬のすぐ前まで歩を進める。
「なんだよ」
「雅の話……あれ、ホントだと思うか?」
「お、いっちょまえに色気づきやがったか?」
「茶化してんじゃねえ!!」
顔を真っ赤にして、圭太郎は綾瀬の脛を厭と言うほど蹴りつけた。
「……ってえなボウズ!!」
「おう、俺は坊主だぜ、坊主で悪りぃか!」
「ちっ」
綾瀬は、まだじんじんと骨身に染み入る痛みを堪え、圭太郎に舌打ちをする。
「まあ、あいつが言うんだから嘘じゃあねえだろうよ」
「んなこと言ったってよ、鬼だぜ鬼?」
「俺が言ってんのは、そういうことじゃねえんだよ」
急に真剣な面持ちになった圭太郎は、綾瀬から視線をそらす。
「鬼でも式でもなんでも……そういうものが使えるのは、死ぬほどの修行をした奴か、生まれつき使える奴だけなんだよ」
他者を使役するのは、それ相応の技量が必要となるのだ。人を使うことですら、人徳が問われる。いわんや霊的存在に絶対服従を命じることに必要とされる才覚の大きさは、およそ常人の窺い知れるものではない。
「なら、生まれつきの奴の方が手っ取り早ェじゃねえか」
いつもなら、こちらから一言を返せば二言三言に増えて罵詈雑言をぶつけてくる。しかしそのときの圭太郎は、いつもと様子が違っていた。
綾瀬の言葉を、しっかりとかき抱くようにして黙ったまま、綾瀬の顔を見返す。
その違和感に、綾瀬が言葉を発しようとするよりも僅かに早く。
「じゃあ、てめェは一生、そう思ってろ」
それだけを言い残し、圭太郎は長屋の中へと姿を消した。やり場のない感情をぶつけるかのように、殊更に乱暴に閉めた戸が派手な音を立てた。
夜更けであった為か、その音はひときわ大きく、綾瀬の耳を打った。
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