間章Ⅸ<術師召還>

 一人の青年が、広い歩幅を保ったまま廊下を早足で進んでいた。


 急いでいるのか、それとも革靴の底が床石を打つ音を殊更に立てようとしているのか。どちらにせよ、新たな一歩を踏み出すごとに、彼の長い髪は揺れた。大きく胸元の開いた、鋭角的な襟を広げた黒いシャツを纏った青年は、ウエストの部分で幅広の黒いベルトをきつく巻いているようであった。そこから裾が膝下まで垂れており、あたかも外套を羽織っているかに見えた。


 青年の向かう先は、観音開きの白亜の扉。豪奢な真鍮装飾の施された、鷲竜獣が威嚇するように口を開いた取っ手に手をかけようとした青年は、指先がそれに触れる前に動きを止めた。


 僅かに逡巡したのち、青年はドアを二度、ノックした。


 廊下に人気はない。ただ、直線的に並ぶ小ぶりなシャンデリアだけが静かに釣り下がっており、薄暗い空間の闇を強調するだけの光を放っている。


「お入りなさい」


 女の声がノックに応え、青年は改めて扉を開けた。





 手前にノブを引いた途端、部屋の中に漂う濃密な匂いが、目に見えぬ触手のように青年の四肢を絡めた。


 それは、まだ新鮮な血の匂い。


 部屋の中には、深く沈む絨毯が敷き詰められていた。調度品は全てそれなりの月日を経ているもので統一されていた。西欧の様々な美術様式等が混在するその空間は、あたかも時が止まっているかのようであった。


 一つ一つの家具調度が固有の時間を有し、その周囲に自分がもっとも記憶に残る時間を再現する。結果、部屋の中には数百年にも及ぶ時間誤差がありとあらゆる場所で息衝いている錯覚を覚えた。


 その中で、青年は正面にいる女性を見た。


 廊下よりもさらに暗く闇が凝っているために、女性はまるでその半身を影に飲まれているようであった。事実、女性は黒のイブニングドレスを身に纏っており、唇にさした鮮やかなルージュの他は白い肌と黒、それだけの色彩しか身につけておらぬ。その瞳の深い闇と妖艶さ、そしてえもいわれぬ悪寒を感じる視線のため、その女性に対するものは正確な判断力を狂わせられているようであった。


「入室したときは、自分の名前くらい名乗るものよ?」


 軽い皮肉的な口調を込め、女性は青年の態度を諌める。しかしそれにすら言葉を返そうとせず、青年はただ右手の指を開き、そして再び握りこんだだけであった。


「もしかすると、もう気づいているかもしれないけれど……最初の損害が生じたの」


「ルスティアラのことか?」


「いいえ」


 女性は椅子から立ち上がると、大きな机の前から離れ、燭台を長く細い指で持ち上げた。


「確かに彼女の被害は予想外だった……極東にあれだけの咒力を持つ霊的存在がいたとはね。でも今回は違う」


 深く溜め息をひとつ吐くと、女性は一つの名を口にした。


「ノーマン・サザーランドが、四国の地で殺害されたの」


「相手は日本人か?」


「いいえ、祟徳上皇すとくじょうこうという霊存在……かの将門まさかどよりは霊格は劣るものの、それでも凄まじい咒力源泉を生み出している怨霊なの」


「怨霊……それは闇の精霊とは違うものなのか?奴のエノク魔術を持ってすれば……」


「この国では、私たちの知っている魔術理論が少しだけ、通用しないところがあるの」


 女性は一枚の紙片を青年に差し出した。


「この国の中に存在する、幾つかの怨霊存在……ノーマンの残留思念が私に伝達したものを書き留めたものよ……ごらんなさい」


 青年は言われるがままに、紙片を開いた。


 美しい筆記体で、縦列に綴られたリスト。その全ては仏蘭西語で書かれていたが、青年はさしたる苦もなくそれを読み進める。


「早良親王、御霊神社。安徳天皇、赤間神社。後鳥羽上皇、水無瀬神宮。安部晴明、晴明神社。これが全て、その怨霊だと?」


「少なくとも、私たちの計画を妨害するものであることだけは確か。パラケルススの理論を学んだあなたたち、エノク四大術師の一角が敗北するだけの相手よ、心なさい」


「で……俺に、何をしろと」


「イングランドの名門、ロートシルト家の長男が、既にこの国に渡っていることがわかってる。あなたは、彼を即刻捜して、連れてきなさい」


「あの……シャトーが!?」


 青年は、驚きを隠せないといったように声を荒げた。


「彼の魔術は、確実に戦力になるわ。あなたは彼を、ここ横濱に連れてくるだけでいい」


 女性は背を向け、青年に命じた。


「お行きなさい、サミュエル・リンドバーグ。もう時間がないの、急ぐことね」

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