第九章第二節<妖女艶舞>
上掛けの下で、夜着に包まれた沙嶺の肢体がぴくりと動いた。長い睫毛が微かに震え、瞼が押し開けられる。
朝ではない。それどころか、午前二時を少し回ったという、まだ夜明けにも程遠い時刻である。
瞼が開かれたとて、光を知らぬ眼は何も映さぬ。眠りから覚めやった時は、ただその感覚の働きによって、それがまどろみの闇であるのか、盲の闇なのかを判別するのだ。
ゆっくりと身を起こすと、寝乱れた銀の美しい髪が動きをなぞるようにして肩から流れ落ちる。すぐ隣では、宝慈が豪快ないびきをかきながら文字通りの大の字になって眠っている。上体を起こしたままの姿勢で、しばらくの間微動だにしなかった沙嶺の頤が、ついと上がった。
名を、呼ばれた?
馬鹿な、と沙嶺はすぐさまかぶりを振る。
このような夜更けに、自分の名を呼ぶ者等いるわけがない。耳を澄ますと、夏の虫の声が涼やかに響いてくるだけである。
遠くに川のせせらぎ。それ以外には。
何も聞こえぬ、はずである。
思い違いか。
しかし、それにしては見事なまでに、眠りから覚めたものである。沙嶺はすぐには布団には戻らず、立ち上がると手探りで障子をからりと開けた。
すぐ眼下には、両国川へと注ぐ用水路が、ただ静かに水面の月をくゆらせているだけである。
無論、人などいようはずもない。
だが、先刻は確かに聞こえたのだ。沙嶺、という名を口にしたのだ。
それは女の声であった。
ふうと胸のうちに溜まった息を吐き、戸を閉めようとしたときだった。
「来よ、疾く来よ」
凛、と鈴の音が聞こえた。
次の瞬間、沙嶺の躰は軽やかに、宙を待っていた。
いくら見えぬことに慣れているとはいえ、裏の水路に身を投じるなど狂気の沙汰。
しかし、見よ。沙嶺の躰は夜着をはためかせつつ落ち、そして爪先が水面に触れた瞬間、魚が残す程度の波紋を広げ、なんと川面を蹴り上げて宙を待っていた。
さらに大きく跳んだその高さは、優に数メエトルを越える。
およそ人間業とも思えぬその動きのまま、沙嶺は夜闇の中に姿を消した。
沙嶺が空を駆けて辿り着いたのは、浅草公園。
しかしそこが一体何処であるのか、沙嶺には皆目見当がつかぬ。いや、今しがたまで自分がどのようにしてここまでやってきたのかさえ、我に帰った沙嶺には理解できぬに相違ない。
かなりの距離を走ってきた、その感覚だけは分かる。
しかし息切れは無い。ただ、肌を嬲る夏の夜の空気だけが、沙嶺にその未知の体験が、夢ではない事を知らせていた。
ここは、何処だ。そう胸中で自問する言葉に応じるように、すぐ背後で鈴が一度、打ち鳴った。
はっとして振り向く沙嶺。
そこには、一人の女がいた。
しゃん、しゃん、しゃん。女は袖や裾を打ち振るいつつ、舞う。漆黒の夜の空間を彩っているのは、櫻の花弁。
それが季節にそぐわぬものでありながら、そのことにすら沙嶺は気づかぬ。
何故なら、彼は目の前の女を「見て」いたのだ。
しゃん、しゃん、しゃん。亀甲地に浮き紋の鳳凰の唐衣、白の裳、萌黄の表衣、紅の菱の打衣と続くその衣装は、十二単と呼ばれた古代日本の宮中の装束である。とてもではないがその衣の重量では、女の力では舞うことなど出来ぬものでありながら、眼前の女はただひたすらに舞う。
長い射干玉の髪が、袖が美しい弧を描き、その度に尽きる事無く舞い落ちる櫻の花弁は揺れ、乱れ、女と共に乱舞を描く。その光景を沙嶺は息をすることすら忘れ、ただ魅入っていた。
浅草公園にある、季節はずれの櫻の林の中を舞う女が、一度沙嶺と視線を交わした。
「あっ」
知らずのうちに、沙嶺は声を漏らしていた。
女の貌は、人と思えぬほどの美しさをしていたからだ。そして、それを「美しい」ということを知っていた自分に驚いたのだ。
美しいという言葉を、沙嶺は本当の意味では理解することは叶わなかった。それにはただ視覚に重点を置いた感覚作用が必要になる。光を感じられぬ沙嶺には、ついぞ美というものが分からずにいたのだ。
だが、今目にしている女を、沙嶺は何の疑いも無く、美しいと思った。
「我をば、な怖れ給ひそ……」
女の声が、そう聞こえたような気がした。
「あなたは!」
沙嶺の声が、反響を残す中、その光景は刹那閃き、闇が戻った。
それはまさに夏の夜が遺した幻であったかのように、沙嶺の脳裏に焼き付いていた。
最早、女の気配は無い。それまで噎せ返るような芳香と共に空間を埋め尽くしていた櫻も、いつしか消え去っていた。
肌に感じるのは、これまで同様の夏の夜気。寝惚けたのだろうか、蝉が途切れがちな声を奏でる夜に、いつしか沙嶺は引き戻されていたのであった。
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