第九章第一節<本所長屋>

 からりと引き戸を開けると、中にこもっていた微かに饐えた匂いが鼻につく。草履を脱いで畳に上がると、藺草の感触が足の裏に心地よい。部屋の中には生活に必要な最低限のものしかなかったが、それでも充分過ぎるほどであった。


 維新から十年が経っても、ここ本所にはまだ前時代の匂いや、深い闇がそこここに見られた。


 鳴山北斗が押し入れの中の布団を確認している横で、ぎしりと床を軋ませて高坂光照が上がりこむ。


「どうだい、ここらじゃあ結構な部屋じゃあないか?」


 加治木直武の通達から一両日が過ぎた。怪我がまだ癒えぬ相馬雅を抱え、路頭に迷いかけた彼等を救ったのは、梅沢綾瀬から光照に口利きがあったからであった。


 吉原には空いている部屋は多くあったが、さすがに坊主連れで歩ける場所ではないし、しかも嫌でも目立つ。さらに、彼等は川路帰国までの間、身を隠しておく必要さえあったのだから。


 特戦警が警視庁を追放されたからといって、それで満足できるものでもないだろう。


 いわば目の上のたんこぶであった特戦警である。追放後であっても、こちらの行動はつぶさに監視され、あわよくば襲撃をかけられることさえある。


「上等だ。無理言ってすまねえな」


「全くだ」


 悪びれない綾瀬に、光照は微笑を絶やさずに返す。


「この礼は、いつかきっちりとしてもらうからね」


「おぅよ、期待しねえで待ってろや」


 拳を上げてみせる綾瀬を押しのけるようにして、北斗が前に進み出る。


「光照さん、とおっしゃいましたね?ご協力、感謝いたします」


「まあな、こうでもしなけりゃ、この昼行灯は使い道がねえからよ」


 綾瀬の軽口を諌めようとした北斗の背後で、障子が開いた。奥の間を回ってきた沙嶺が、宝慈に連れられて戻ってきたところであった。


「こいつぁちと充分過ぎらぁ……なあ?」


「お坊様にも喜んでいただけて、何よりだ……いい功徳になりますかね?」


「そりゃあ、もう」


 宝慈は生来の柔和な顔を破顔させる。


 この場にいるのは、光照を除けば沙嶺、宝慈、綾瀬、北斗の四人。既に雅は知り合いの医者に預けてあり、落ち着く先が決定し次第すぐにこちらへと運ぶ手筈は整っている。


 残る一人が、命堂圭太郎であった。


 彼自身、直接特戦警としているわけではないが、度々北斗らと接触を図っている。その情報がもし加治木らに漏れているとするならば、彼一人を放って置く訳にもいくまい。


「一つお訪ねしてもいいですか?」


 部屋を借りることが決定しかけたそのとき、後ろから口を挟んだのは沙嶺であった。


「うん、何か」


「つかぬことではありますが……こちらに、動物の気配がしたように思ったんですが」


 動物の気配、という言葉を耳にしたとき、光照の顔に微かに緊張が走った。


 それに気づいたものは誰もいない。いや、微妙な呼気の乱れが、沙嶺には感じ取れたか。


「動物っていうと、犬とか猫とかかい?」


「いや」


 重ねて質問をしようとした沙嶺だったが、そのとき、何かが押し留めた。


 先ほどの質問は、真偽はどうあれ、光照を明らかに動揺させた。本質が光照自身にあるのか、それともこの部屋にあるのかまでは分からない。沙嶺自身の感覚に触れたその気配と言うものも、本当に微細な、それでいて刹那のものであったからだ。


 しかし、この場で光照をこれ以上動揺させるのは賢いやり方ではない、というのが沙嶺の下した結論であった。


「すいません、私の思い違いみたいだ」


 それについての、光照からの返答は無かった。他に異論を唱えるものはおらず、無言の承諾によって話はまとめられた。





おん 吃哩吃哩きりきり 縛曰羅ばさら 縛室唎ぶりつ 没駄満多満多ぼだまんだまんだ うん 発吨はった


おん 吃哩吃哩きりきり 縛曰羅ばさら 縛室唎ぶりつ 没駄満多満多ぼだまんだまんだ うん 発吨はった


 奥の部屋より、沙嶺と宝慈とが紡ぐ真言がうねりながら聞こえてくる。


 親指、人差し指、小指を合わせ、中指と薬指とを互いに交差させる手印を結びつつ、向かい合ったまま三摩地の半跏趺座を組んでいる。金剛橛こんごうけつと呼ばれる、曼華経における修法の一つであった。


 通常は修行の為の結界を張り、場を邪念や煩悩が侵蝕することを防ぐためのものだが、こうして一定の空間に結界を張る際にも応用が出来る。一人残った北斗の感覚にも、部屋の周囲を肌がぴりぴりとする何らかの緊張が走り続けていることが分かっていた。


 あの二人も、それなりの道力を持った僧だということか。


 土間のある壁の正面に、北斗は鏡を掛けていた。


 鏡とはいえ、通常の姿見ではない。そうした機能ではなく、正方形の盤の四隅を切り取った八角形をしたものである。大陸風水では、一般的に八卦鏡と呼ばれるものである。巒頭系風水、つまり何かしらの形を取り、目に見えるものとしての相を診る際に、特に形煞けいさつというものがある。


 形煞というのは相から判断される殺気を意味する。特に邪気の通風孔となる玄関に配置される八卦鏡は邪気を反射させ、家の中に入り込むのを防ぐ役割がある。それを応用し、ここの場所がもし何等かの霊的な妨害を受け、しかも二人の曼華経結界を越えたものがあった場合に、二重の防壁を築くというものであった。


 途絶える事無く流れる真言を聞きながら、北斗は自嘲気味に溜め息を一つ吐いた。


 どうして、こんなことになってしまったのか。川路が海外視察に赴くことが無ければ、このようなことは起きなかっただろうか。


 そこまで考えて、北斗は淀み始めた思考を頭の中から払拭した。


 そんなことを考えていても、現状の解決にはならない。川路がいる時期から、何か不穏なことは起きはじめていた。思えば、それは大久保内務卿暗殺に端を発していたのではないだろうか。日本を先導するだけの力を持つ人物の喪失と共に、何かがこの国を食い荒らそうとしている。


 そしてそれは、日本という集団を確実に分割、各個撃破に出てきているのだ。


「……侮ってもらっては、困りますよ?」


 誰にとも無く、そう呟く。


 部屋の奥からは、いつしか真言は止んでいた。

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