第八章第一節<剥奪>
相馬襲撃の報は、瞬く間に警視庁に知れ渡ることとなった。
運が悪い事に、川路はその日の朝早くに海外視察のために日本を離れ、巴里に旅立ってしまっていた。
直属の上司を失い、さらに雅が何者かに背中を斬りつけられるという事件は、残った隠密衆の梅沢綾瀬、鳴山北斗を驚愕させた。
警視庁の医務室で、白く清潔なシーツに寝かせられている雅は、傷口縫合の際の麻酔が聞いている為にまるで人形のような蒼白な顔色のまま、規則正しく胸を上下させている。
「どうなんだよ、オイ」
回転椅子に座る医師に、綾瀬が乱暴な口調でつっかかる。元々、破天荒な綾瀬の性情を知っているために、医師のほうもまた、気にしていない様子であった。
「筋肉や神経には支障は無いが……あそこまでばっさりと斬るとは、向こうも躊躇していなかっただろうね」
それはすなわち、雅を殺害する心算があったという可能性までが窺える。
「心当たりは、あるんかなぁ」
「私たちは元々特殊な身分ですからね……恨みを買おうと思えば、それこそ普通の人間よりは標的になりやすい」
宝慈の問いかけに、憔悴した口調の北斗が答える。
「何落ち着いてやがんだ、北斗!!」
「ここで騒いだからってどうなります」
冷静な状況分析で、北斗は荒れる綾瀬をぴしゃりと諌める。
「川路さんがいない今、我々に出来ることは限られていますよ」
椅子に座り、膝に乗せた手を組んだまま、北斗は視線を落とした。
あまりにも、作為的なタイミングであった。川路が日本を発つのを見越したようなタイミングで特戦警を襲撃し、そして。
「内部混乱……?」
「北斗?」
一つの単語を呟き、それに沙嶺が反応した。
「もし何者かが警察機構の内部を撹乱することを狙っているのなら、これはまたとない好機なのではないですか?」
その仮説がもし成り立つのなら、今の状況でもっとも可能性が高いのは。
「浅草寺の事件、か?」
「はい」
北斗はゆっくりと立ち上がった。目の前に差し出された、複雑に絡まりあった麻糸をほぐすように、焦る事無く、手元から手繰り寄せていく。
もし、霊的な意味での帝都破壊を外国人の集団が狙っているのだとすれば。
一番の障害は、警察機構による取締りであろう。神社仏閣への自由な出入りが妨げられ、また外国人を規制する法案などが明治政府で採択されたとすれば、その立場は一気に制限されていく。
そのための第一歩として、警察の混乱を招いた、と考えれば。
「いや」
北斗は、一つのことに気づき、それまでの考えを払拭した。
川路が仏蘭西へ発つことは、誰しもが知ることが出来た情報ではない。とすれば、外国人の集団がその情報を手に入れられる可能性は低くなる。
「弱りましたね」
背中を壁におしつけ、北斗が指を唇に当てたときであった。
正面に位置する医務室のドアの擦りガラス越しに、人の影が映りこんだ。次の瞬間には、ノックもなしにノブが回され、ドアが開く。
その場に居合わせた一堂の視線が、集中する。
姿を現した男の名は、加治木直武と言った。独特の巻き毛の下から、叩きつけるような眼光を持って室内にいる者たちをねめつけている。
「なんだよ」
加治木は、川路が不在の現在、その指揮を代行している地位にあったが。
たかが警部ごときに、大警視の代行が務まるのかと署内においても、その人事には不満の声が尽きなかった。
加治木とて無能な男ではない。しかし、医務室を訪れた加治木の様子は、どこかおかしかった。少なくとも、以前に顔を合わせたときにはこのような気迫を持つ男ではなかった。
「どうしましたか?」
「特戦警の犬め」
押し殺した声に、部屋の空気が緊張する。
「この場を持って通達してやろう。お前達特戦警の権利は今をもって剥奪とする……隠密などという私兵集団を認めていては、今後の警察組織の発展を遅らせる害毒以外のなにものでもないからな」
にたり、と加治木の唇がめくれた。
「おいおい、そんな無茶な……」
立ち上がりかけた医師を眼球だけを動かして睨むと、加治木はその右腕を閃かせた。
予想外の動きに、咄嗟の反応が取れぬ。裏拳を鼻柱に叩き込まれ、医師の体が吹き飛ぶ。
「てめえ!?」
色めき立つ綾瀬をすんでのところで制し、北斗が壁から身を離した。
「なんだ? 異論があるか?」
左眼だけが、まるで別の生き物が寄生しているかのような動きで北斗を捕らえる。その途端、北斗の全身を形状しがたき悪寒が走り抜けた。
間違いない。今の加治木は、とてもではないが正常な状態とは言えぬ。
北斗は加治木から視線を離す事無く、唇の中で言葉を唱えはじめる。
「付くも不肖、付かるるも不肖……一時の夢ぞかし、生は難の池水つもりて淵となる、鬼神に横道なし……」
宮地水位の著作によって伝えられる、神仙道系の祓え咒言であった。
だが、それは最後まで唱えられることは無かった。ひゅんと空を裂く音がして、加治木の傍らから何かが突出して来た。加治木の部下としていつも傍らについてまわる、油戸杖五郎の持つ六尺棒であった。
「貴様が不可思議な術を使うことは知れている……油戸の九鬼神流棒術と勝負してみるかぁ?」
ぎり、と北斗の奥歯が軋る。誰もが次なる行動を躊躇する、一種の均衡状態が発生する。
そのまま数刻が流れ、張り詰めた緊張が最高潮に達するかと思えたとき。
「わかりました」
声を発したのは、沙嶺であった。倒れ、鼻血に白衣を汚したまま昏倒している医師を助け起こすと、沙嶺は涼しげな口調で続けた。
「それが命令だと言うのならば従います……けれどこちらには怪我人がいる、少し待ってもらえませんか」
「……ふん」
まるでこの場において、全員を叩き伏せることができないのが如何にも残念である、という風に加治木が鼻を鳴らす。
「盲の坊主に免じて許してやろう……一日だけ待ってやる。その小娘を抱えて、とっとと失せろ」
綾瀬の殺気が見る間に膨れ上がっていくのが、手に取るように分かる。しかし彼自身、殺気を放散することが得策ではないことが分かっている。ばたんとドアが閉まり、足音が遠ざかっていくまで、誰もがその場にいたまま無人の入り口を凝視したままであった。
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