第七章第四節<襲撃>

 すっかり夜も更けた道を、足早に進む人影があった。黄八丈の格子柄をした小袖姿で、両手で胸元に赤子を抱えているその姿の主の名は、相馬雅。


 小石川にある産婆の元を訪れた帰りだったが、時間を忘れていろいろと話し込んでしまったために、既に時刻は十時を回っている。如何に明治の治世とはいえ、まだまだ夜道の一人歩きは大の男でも危険であった。雅としても、出来るなら危険は避けていく智慧は持っていたはずだったが。


 無言で足を進めながら、雅は産婆の残していた言葉を思い返していた。


 この子が捨子であることを説明するよりも早く、腕に抱いた途端にぼそりと呟いた言葉があったのだ。


『不憫だね……きっと、この子は今に生まれてきたことを後悔するほどの目に会うことになる……』


 ふと足を緩め、腕の中の赤子を見ると、産着に包まれたまま安らかな寝息を立てている。


「生まれて来たことを後悔するなんて……そんなことは、絶対させないわ」


 雅はいつになく、寂しげな瞳で赤子の寝顔を見つめながら囁いた。


「お前は幸運なんだからね。こうして、ちゃんと世話をしてもらえる人に出会えたんだからね」


 言葉が赤子に届くなどとは思っていない。しかしまるで言葉がわかったかのように、赤子がむずがるように声を上げたので、雅は思わず微笑んでいた。





 いつしか道は飯田橋の停車場を過ぎ、皇城の外濠の横にさしかかったときであった。


 突然に、前方から閃光が夜闇を暴力的な力で引き裂いた。


「くっ……!?」


 両手を塞がれていた為、雅は顔を庇うことが出来なかった。かろうじて体をひねり、閃光を直視することを免れた雅は、神経を聴覚に集中させた。


「止まれェ、娘!」


 光の中から、男の怒号が響いたかと思うと、ばらばらと幾人もの足音が聞こえる。


 どうやら、こちらに向かってくるというのではなさそうだ。薄目を開けて様子を伺うと、強い光を背中に無数の人影が見える。赤子をぐっと左腕で抱き寄せると、雅は死角になっているであろう右手を胸元へと滑り込ませた。


 指先が、紙に包まれた硬いものにこつんと当たった。


「貴様ァ……川路の腰巾着の娘だな?いつもの連れの二人はどうしたァ??」


「誰よあんた!」


 言い返してから、雅はふと気づいた。


 これだけの異常事態、それも自分ですら緊張している状況で、腕の中の赤子はいまだぐっすりと眠っている。普通なら、火がついたように泣き喚くだろうに。


『どうして……まるで、泣かない事で私を助けてるってことなの……?』


 この至近距離で泣かれれば、雅とて状況判断に支障をきたす。赤子が泣かないことは、今の雅にとって幸運以外の何物でもなかったが。


 言い返した途端、雅の前の地面が弾けた。


「貴様の質問は許しておらん。素直に赤ん坊を渡すなら、無事に帰してやろう」


 銃を使ったか。


 そう悟った瞬間、雅の唇が不敵に歪んだ。こちらの氏素性まで調べておいて。


「アタシに銃撃ちやがったな……?」


 着弾の距離から、あの人影の中で一番太っている男だろう。これだけの時間、強い光を浴びていれば目もそれなりに慣れてくる。


「……ん?」


 男の声がするよりも早く、雅は胸元から一丁のデリンジャーを抜き放った。


 弾丸は装填済み。動きを止める事無く、照準をつけた瞬間に引き金を引き絞る。


 銃声と共に、男の悲鳴が上がり、何かが地に落ちる音が聞こえた。雅の弾丸は、狙いどおりに男が手に持っていた拳銃を撃ち落したのだ。


「銃の扱いに関してはこちらが上よ。さっさと撤退しなさい!」


「……貴様、帝国陸軍に歯向かったということは、それなりの覚悟があるということだな!?」


 帝国陸軍。


 その名に、雅は強い疑念を感じた。


 ここが待ち伏せされていたということは、警察の中の情報が漏れていたということ。しかしそれ以上に分からないのは、ただの捨子一人に陸軍が動くということだ。


 普通であれば、そんなことは考えられない。見たところ特別な理由があるわけでもないし、周囲の調査からやんごとなき方の隠し子というわけでもなさそうである。


 赤子を抱いたまま、ゆっくりと後退する雅。


 だが今しがた自分が歩いて来た背後の道に、新たな気配が生まれた事を知るのが、僅かに遅れた。


 ざんばら髪をした、猿のような影が背後から飛び出してくる。短く毛むくじゃらの四肢は太く短い。その牙の生え揃った口に小刀をくわえたその異形は、擦れ違い様に雅の背中に斬りかかった。


 左に赤子、右に拳銃。


 さらに不意を付かれた攻撃に、雅が反応できるわけもなく、追い抜かれるように交差した攻撃に体勢を崩して倒れる。


 背中が焼けるように熱い。斬られた瞬間は痛みよりもその衝撃で弾き飛ばされるかと思ったが、今はじくじくと溢れ出す血糊の感覚までがはっきりと分かる。


「先生を怒らせるからそうなるのだ」


 緩慢な足取りで光の中から男が雅に近づくと、前に投げ出されるような形になった赤子を拾い上げる。


 そこまで来て、雅はようやく男の正体に気づいた。


「柿崎……!」


「今更気づいてもどうにもならんよ」


 斬られたショックと、出血。その二つのせいで、雅の意識は急速に混濁していく。


 しかしなおも立ち上がろうと足掻く雅の視界に、柿崎の隣に立つ男の姿が垣間見えた。


 鍔広の帽子をかぶったそのシルエットを網膜に焼き付けながら、雅は力無く地に伏せ、意識を失った。

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