第七章第三節<神仏結界>
警視庁を出た梅沢綾瀬は、何をするでもなく一人、往来を歩いていた。
聞きたいことは山ほどある。しかし、誰に聞けば正しい答えが得られるのか、分からないのだ。いや、正しい答えなど本当は存在しないのかもしれない。
だからこそ、苛立つ。次の一歩を、どちらに踏み出せばいいのかが分からない。一旦踏み出してしまえば、もう方向を違えることは出来ないような気がしている。
「……くそったれ」
こんな下らないことで悩むことなど、今までに一度だってなかった。いつだって、綾瀬は自分自身で、ここまで切り進んできた自信があった。
どこに行く当てもなく、綾瀬の足は吹上御所を背にして東享衛生病院の角を曲がり、三宅坂にと向かっていた。真っ直ぐに進んでから右に折れれば、紀尾井町だ。
大久保が、あの朝殺害された場所。
直接の面識はない。しかし、彼にしても大久保の壮大な理想は心をくすぐられた。帝王でも将軍でもなく、他ならぬ日本国民が日本の行く末を決定する、
これよりはじまる第二期十年は、国家建設にとって最も重要な時代。それを前にして、兇刃に倒れ伏した貴殿は、己の血の海で何を思ったか。感傷気味になっていた自分に気づき、誰が見ているというわけでもないのに綾瀬は自嘲に唇を歪めた。
「ネイションステイト……か」
蝉の声を聞きながら、綾瀬がそう独語して空を見上げたときであった。
背後から、馬車の車輪の音が聞こえてくる。馬の蹄の音といい、かなり急いでいるらしい。後ろを振り返るでもなく、すっと横に退いた綾瀬の後ろで、馬車は唐突に速度を緩めた。
その気配に振り向いた視線が、馬車の窓が開いた向こうに顔を出した男にぶつかる。
「綾瀬!」
馬車に乗っていたのは鳴山北斗であった。
「急な話があるんです、馬車に乗ってください!」
その口調から急を要していることは分かる。何が起きたのか、それを聞くためにも綾瀬は速度を落とした馬車の乗り合わせの枠を掴み、ぐっと躰を引き上げた。
馬車の客室の中にいたのは、北斗だけではなかった。あの夜に命を助けられた曼華経僧の命堂圭太郎までが、正面の座席に腰を下ろしていた。
「……なんでえ、この坊主もか」
「うるせえよ」
憎まれ口の相手をせず、綾瀬は北斗に話を振った。北斗の性格を考えれば、この場に圭太郎が居合わせているのは偶然ではないだろう。これからの話には、圭太郎も関係してきて問題はないという判断が下されたに違いなかった。
「てめえ、朝っぱらから何処行ってやがったんだ?」
「すいません、けれどそれよりももっと重要なことが……」
北斗の言葉に、圭太郎も無意識に身を乗り出している。どうやら、綾瀬を捉まえられるまで、同席していた圭太郎にも話はしていないようであった。
北斗は傍らの鞄の中から、一枚の大判の東享市地図を取り出した。そこには皇城を中心に、何本かの線が引かれていた。
「あの夜の話を覚えていますか? 浅草寺は
北斗の説明に、二人は無言で先を促す。
「ならば、逆に今の皇城、つまり瑿鬥城の鬼門と裏鬼門を探ってみた……その線が、これです」
北斗の指が地図上の一本の線を指差した。線の両端には、いずれも寺社仏閣の名に丸がつけられている。
「こちらは堀切神明宮……千葉氏という武蔵野の為政者の一族が武運祈願のために勧請をした場所です」
北斗の指は、そこから線に乗ってすっと南西へ動く。終着点もまた、神社。
「葛飾の堀切神明宮から裏鬼門の方角に移動すると、ここ……碑文谷の厳島神社へと到達します。詳しい事は分かりませんでしたが、創立は戦国時代まで遡り、祭神は弁才天」
「適当に線引っ張ったってよ、どっかしら寺なんて見つかるもんなんじゃねえか?」
「そうでしょうか」
綾瀬の批判に、北斗は地図から顔を上げた。
「では……この神明宮から皇城までの直線距離が、厳島神社から皇城までとぴったり一致するとしても、ですか」
さすがにその一言は、二人を黙らせるには充分過ぎる一言だった。
「本当か、おっちゃん」
「嘘をついてどうなります」
北斗は改めて、地図に顔を伏せた。
「手間を省きますが、この線上には千葉氏のみならず、鑟川氏、源頼朝など……武蔵野に居を構えて来た歴代の為政者に関係の深い寺社が点在します。つまりこの線は、明らかに人為的な作為によってこの関東の地に施された一連の、呪術ということになる」
北斗が赴いた日枝神社にしても、瑿鬥期の明暦の大火ののち、将軍によってこの地へと移転されているのだ。
「話はまだ終わりではありません」
北斗の指が、今度は斜めの線を指した。
「浅草寺が正確な鬼門封じではないのなら……この鬼門守護の呪術線の両端から浅草寺に向けての線を引いてみたんですよ」
堀切神明宮から、浅草寺へ。
「残念ながら、厳島神社から浅草寺への線は外れでした……しかし」
厳島神社から引かれた線は、やや異なる軌道を持って、浅草寺から若干北西に動いた部分を貫いた。
「寛永寺です」
同じ名を、確か綾瀬は沙嶺と宝慈から聞いていた。あの時は世迷言として聞き流していた話が、にわかに真実味を帯びてくる。
「鬼門呪術線から二神社を結ぶ線は完璧な並行線……そしてそれは共に、ここ……皇城の内濠を通過しているんですよ」
「結界だ」
圭太郎の呟きに、北斗は頷いた。
「瑿鬥の東を流れる川として有名なものは隅田川と荒川。うち、隅田川は古来、瑿鬥城の外濠を流れる水を神田川、平川から連結されていました。この隅田川、現在でこそ荒川よりも小さいですが……他の河川と交わる箇所殆どに熊野神社が点在しています。祭神には
結論を聞くのが怖くなってくる。あの外国人がやらかしたことは、もしかしたら凄まじく危険なことなのではなかったか。
「つまり、瑿鬥の外濠は物質としての水を介在し、熊野神社による霊的結界守護により、他の河川に霊力を奪われることなく濠を流れ、瑿鬥城を守護していた……そして」
話を、最初の線に戻す。
「浅草寺の本尊は聖観音、つまり菩薩。観音菩薩の浄土は
似た話を、あの夜圭太郎から聞いている。
「結論です。つまり、大陸呪術、風水の理論からの四神相応で見れば、瑿鬥城はこうした無数の神仏と寺社仏閣により、人為的に東の青龍を結界として利用した、霊的要塞だということになります」
吉祥の地でないのならば、呪術を施して吉祥の相を作り上げる。鑟川治世、三百余年。その安寧は、全てこれらの加護によるものであったというのか。
「こっちの調べで、遅れやがったな」
「ええ……でも、充分にお釣りが来る内容だとは思いますが?」
北斗は地図をくるくると丸め、眼鏡を押し上げた。
「ちょっと待ってくれ」
やや遅れて口を挟んだのは、圭太郎であった。
「何か」
「今の話でちっとわかんねえだけどさ。天皇ってな、鑟川と仲が悪かったんだろ?」
武家と天皇家。確執が無いと言えば嘘になる。
「だったら、鑟川の作った結界の中で、なんで今の天皇はのほほんとしてんだ?」
それは言わば、敵方の呪術要塞を奪い去り、単純に足を踏み入れたに過ぎない。
それがもし、自分に仇名す属性の咒力を帯びていたのなら、無事には済まない。
鑟川の呪術結界は、今なお健在なのだろうか。天皇家は、そのことに気づいているのだろうか。もしかすると、天皇家は新たな呪術をこの地に施しているのではないだろうか。
明璽二年の公布された、廃仏稀釈令はその一環だとするならば。
馬車の客席を、不快な空気がゆっくりと流れていた。
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