第七章第一節<捨子>

 その日、朝の警視庁の取調室の一つから、何とも場違いな声が聞こえていた。


 浅草寺での殺しの一件の仕事が終わらず、寝不足のままに出勤して来た梅沢綾瀬は、まだ警官服に着替えぬ着流し姿のまま、ドアを開けたままの姿勢で動けなくなっていた。


 テーブルの上には、申し訳程度の毛布が重ねられており、その上では産着に包まれた赤子が身をよじって泣いているのだ。


 何だこれは、と問い掛けるも職員の殆どは男である。赤子にどう接していいものか見当がつかず、とりあえずは部屋の中に置いてはいるものの、それからあとは皆目分からない。


「……おい」


 綾瀬は近くを足早に通り過ぎる若手の警官の肩を掴むと、無理矢理に引き止める。


「な、なんですか」


「誰の子だ」


「じっ、自分のではありませんっ」


 動揺しているためか、突拍子も無いことを口走る。


「んなこと聞いてんじゃねえ。誰の子だって聞いてんだ」


「今朝方、川路警視が連れてきたんですよ」


 掴まれた所為で上着が乱れ、それを整えながら若い警官は説明する。


「あのおやじのか!?」


「違いますってば」


 綾瀬の短絡思考に辟易しているといわんばかりに、若い警官は苦虫を噛み潰したような表情になる。


「なんでも、すぐ近くの神社に捨てられていたそうなんです。すぐ近くに母親らしい女性も倒れていたんですが、そちらはもう仏さんだったようで」


「……」


 目の前でむずがるように泣き続けている赤子に視線を移し、綾瀬は小さく溜め息を吐いた。


 捨て子か。


「何処の神社だ」


「浅草区の、鳥越大明神ってとこらしいですよ」


 また、浅草か。綾瀬には、最近の事件がすべてあの近辺に集中しているように思えてくる。


 実際問題として、そうなのだが。あの浅草という場所が、何か特別なのか。川路の隠密として動いていても分からなかった何かが、あそこにはあるのだろうか。


「手間取らしたな」


 綾瀬は若手の警官に礼を言うと、ばたんとドアを閉めようとしたときだった。






 背後でざわりと人の気配が変わる。


「どこどこ、その赤ちゃんがいるのは!?」


 若い女の声だ。それだけで、入ってきたのが誰であるのか綾瀬には分かっていた。


「あっ、綾瀬!!」


 人込みを掻き分けるようにして姿を現したのは、小袖姿の女であった。


 女といってもまだ成人には満たぬ。あの命堂圭太郎と、年の頃は同じくらいか。だがその外見に似合わぬ腕を、彼女は持っている。


 梅沢綾瀬、鳴山北斗に続く川路直属の隠密、特務戦闘警察官三番手が、彼女こと相馬雅そうまみやびであった。


「人のこと軽々しく指差すんじゃねえ」


「生意気言ってんじゃないわよ」


 綾瀬をどんと押しのけると、雅は取調室の中に寝かされた赤子を見つけた。


「あぁあぁ、こんなところに寝かされちゃって、ほんとにもう」


 産着の上から赤子を毛布でくるみ、それを慣れた手つきで抱き上げる。


「ほう……手馴れてんじゃねえか」


「年が離れた弟がいたからね」


 それまで、喉も枯れんばかりに泣き続けていた赤子も、ようやく安心できる相手が見つかったからか、雅の腕の中ではぴたりと声を止めた。


「へぇ、たいしたもんだ」


「ホント、男ばっかりのこんなところに赤ちゃん置いとく気が知れないわ」


「しょうがねえだろうがよ、どうしたらいいのか全然わからねえんだから」


「だからなおのこと、あんたたちには預けていられないって言うの」


 一度抱き直そうと赤子を持ち替えた雅は、ふと左手に視線を落とした。


 右手は軽く握っているだけで指は開き、まだぷっくりした掌が見える。しかし、赤子の左手は何故かぎゅっと握り締められたまま、動く気配が無い。


「この子、なに持ってるの?」


「知るか」


 少し首を傾げ、赤子の顔を見つめていたが、やがて雅は微笑み返した。


「ま、いいわ……じゃ、この子は私が預かるから」


「それからよ、そいつずっと朝からここにいたからよ、腹ぁ減ってんじゃねえか?」


「そうだと思うなら、あんたらどうにかしなさいよ」


 小さく呟き、雅は綾瀬に背を向けた。


「てめえが乳出るんなら飲ませてやっといてくれよ」


 追いかけるようにして投げかけられた言葉に、雅が鋭い視線で答える。


 目つきこそは鋭いが、顔は泥酔したように紅潮している。そのまま何も言わずに、男連中の笑い声から逃げるようにして雅は廊下へと姿を消した。

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