間章Ⅵ<横濱山手>
太い葉巻をくわえる唇の間から、紫煙がゆっくりと吐き出された。
照明が落とされた室内には、ざわめきと共に静かな興奮が満ち充ちている。
男は改めて、眼鏡越しに右手に持ったトランプの札に目を落とした。スペードの4とクイーン、ハートの9、クラブのジャックとキング。どの役にもあてはまらない。
男はそれから、テーブル越しに立つ若いディーラーの顔をじっと見た。
まだ若い青年だ。栗色の髪にはウェーブがかかっており、頭を優しく包んでいる。カードを持つ男は、自分の手が小刻みに震えていることに気づいていないようであった。もう一度手札を見、そして唇を強く噛み締めてから、罅割れたそれを舌で湿らせる。
「……君」
ディーラーは、白いシャツに包まれた肩をびくりと震わせて、男の方に向き直った。
揺れる前髪の奥で、瞳が不安と恐怖とに揺れる。気が弱い、とこの青年を責めることは出来ないだろう。何故なら、テーブルに並ぶものたちも皆、大の大人であったとしても、この男の視線を正面から受けられるものはいないであろうからだ。
「見ない顔だが……名前は?」
「……アンソニー、です」
「ふむ」
男は口元をカードで隠すような恰好で、アンソニーを値踏みするようにねめつける。
「その顔は、私のことを知らぬわけではなさそうだな」
カードをテーブルに伏せ、男は獲物を追い詰めた獣のような視線でアンソニーを射竦める。
「そうか……では、この横浜でうまく生きていく智慧も、あると見ていいのかな?」
男の言葉は直接的ではないにしろ、ディーラーの青年を威圧するには充分過ぎるほどであった。テーブルに並ぶ西洋人たちは、あからさまな嫌悪に充ちた視線をちらちらと男に向けている。それらの反応を全て知りながら、男は手元からチップを掴むとばらばらと投じた。
「レイズ」
言葉に詰まる青年に、男はカードを五枚突き出す。
「チェンジだ」
賭け金を上げておきながら、手札を交換するなど、無謀でしかない。少しでもルールが分かっているなら、絶対にこのような真似などしないはずだ。
テーブルについている西洋人は四名。うち三名が、英語の俗語でなにやら悪態をつき、ベットしたチップを押しやるようにしてカードを伏せたまま投げた。
ゲームから降りる、という合図である。いや、もうこうなってはゲームですらない。だが残る一人の赤毛の大柄な男は、ついに我慢の限界のようであった。
「おい、いい加減にしろ」
日本人と西洋人。その骨格差や筋力差を考えれば、日本人の男のほうが明らかに不利である。しかし大男にすごまれてもなお、痩せた男は異様な光を湛えた瞳を崩さなかった。
「失礼、何か言いましたか」
「くそったれなてめえのせいで、何もかもが台無しなんだよ! もう今日は我慢ならねえ、とっととここから出て行きやがれ!」
賭場全体の空気を静寂にさせるほどの男の怒気を近距離で浴びてもなお、痩せた男は表情を変えなかった。病的に白い肌を紅潮すらさせず、落ち窪んだ眼窩に埋め込まれたガラス球のように無機質な瞳で、男は微笑んだ。
「今の一言はなかったことにしてやろう……お前のチップを、全部ここに置いていくがいい」
「くそ!!」
やおら座ったままの男に詰め寄ろうとした西洋人だったが、瘤のように盛り上がった腕から放たれる拳は振り上げられることは無かった。
影のように西洋人の脇に滑り込んだ何者かが、したたかな一撃を後頭部に加えたためである。急所を的確に捉え、ぐったりと気を失う西洋人を軽々と担ぎ上げたのは、肉の総量では西洋人に劣らぬほどの日本人の男であった。
「騒がせてすまないね……今日はこれくらいにしておこう」
痩せた男は無気味な笑いと共にそう言い残し、テーブルから離れた。
肉で肉を殴る鈍い音が、夜闇に連続してこだました。
横浜の、山手居留地にあるカジノにいたあの痩せた男の前で、赤毛の西洋人は大柄な日本人男性から一方的な攻撃を受けていた。
体格差では恐らく引けを取らなかったに違いない。しかし相手が悪かった。立て続けに頬に拳打を喰らい、よろめき上体を倒したところに腹に膝がめりこむ。
血の混じった唾液が唇から糸を引いたと同時に、日本人の蹴りが西洋人の顎に命中する。脳震盪を起こし、後ろに吹き飛ぶ西洋人を逃がさないといったように、大男は無理矢理立ち上がらせ、背中から両腕を羽交い絞めにする。混濁した意識を現すような虚ろな目で、深く切れた唇から鮮血を滲ませる男。
「喧嘩を売るときは、相手をよく見てするんだな」
痩せた男は、無数の指環を嵌めた右手を上げ、男の顎を上にあげるようにして自分に視線を向ける。
「この顔をよく覚えておけ。
「……Shit!」
西洋人が躰の痛みを堪えつつ、口中の血唾を正光に吐き掛けた。どろりとした粘液が頬に広がると、正光はゆっくりとそれを指で拭う。
「どこまでも、バカな男だ」
言うや否や、正光は手首を翻して右の手甲で西洋人の頬を打った。鋭利なデザインの指環の金具の一つが頬の皮膚を裂き、肉を抉る。口の端から頬骨の辺りまでを切り裂かれ、たまらずにうめく。
ぼたぼたと色鮮やかな血を垂らしつつも眼光を失わない西洋人に、正光の瞳に加虐的な光が宿った。
「おい」
短い言葉に応えるかのように、正光の背後から矮躯の男が進み出た。
背をかがめているとはいえ、身長は一メートル少ししかないにもかかわらず、男の顔には明らかに年を重ねていた皺が刻まれている。年配だということを差し引いても、この男の躰は小さ過ぎる。
その不気味な男は、手に奇妙な長さの針を持っていた。
身動きの取れない西洋人の前まで来ると、小男は無気味な笑いと共に西洋人の肩に触れ、針の先端を一点にあてがった。
「ああァっ……がああアアアアア!!」
針で肩を貫かれただけにしては、不釣合いと思えるほどに西洋人の躰が緊張し、喉からは苦悶の声があがる。全身から汗が噴出すが、小男は針をなおも躰に埋め込んでいく。時折顔を覗き込むようにしながら、針を傾けて新たな肉を刺し貫くたびに、男からは苦悶の声があがった。
程なくして、羽交い絞めにしていた大男が針を刺されたほうの腕を解放すると、その太い腕はだらりと垂れ下がったまま動かない。
「お前の腕の神経の一部を削り、腱を切断したのだよ……その腕は、もう一生動くことは無いが」
正光は腕をぐいと持ち上げると、指が力無く内側に曲がったままになっている。それをまるで美術品か何かのように愛しげに一撫ですると、それを傍らに置かれた酒樽の上へと乗せる。
「それだけでは、今夜の手土産としてはいささか物足りない気がするのだが、どうだろう」
正光は薄ら笑いを浮かべると、小男の捧げ持っていた洋酒の瓶を受け取ると、やおらそれを喇叭飲みに煽る。そしてまだ半分以上中身の残っているそれの首を持つと、おもむろに横の壁に叩きつけた。
むっとする葡萄酒の芳香が立ち込める中、ぎざぎざに砕け残る瓶の断面を、ぐったりした西洋人の指の上に突き立てた。
無数の鋭利な刃のような断面が砕け、西洋人の絶叫と共に鮮血の池の中にぽつりぽつりと白いものが浮かんでいる。巨大な芋虫のようなそれらは、鋭利な破片によって切断された西洋人の指であった。
辛うじて残っているのは親指と薬指だが、それらとて無事とは言えぬ傷を負っている。
肩を震わせながら、西洋人を見下している正光は、大男に合図を送る。戒めから解放された西洋人は、最早動くことはない肉の塊となった右腕を抱えながらひぃひぃと空気の漏れるような悲鳴を上げ、蹲っている。
「その右腕を見れば、今夜のことを思い出せるだろう……くく、楽しい一時だったよ」
正光は病的な光を瞳に湛えたまま、這いつくばる西洋人にくるりと背を向けた。
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