第六章第四節<神遣>
一陣の夜風が境内を吹きぬけ、ざわざわと遠くで樹々の葉擦れの音が小波のように聞こえる。
スーツにネクタイという洋装に身を包んだ鳴山北斗は上着の胸ポケットに指を差し入れ、懐中時計の鎖を引き出した。真鍮の蓋を開くと、あと半刻で日付が変わろうという時刻であった。
北斗が足を向けたのは、他ならぬ日吉山王大権現社、つまり日枝神社である。それまでは山王権現の名で親しまれていたこの場所も、明璽元年に名を日枝神社と改めている。自ら瑿鬥城鎮護、そして皇城の鎮を名乗るだけあって、現在もなお東享の中心地にありながら、広大な敷地を有している。
現在でこそそうした立場にあるが、元々は太田道灌の勧請によるものとされている。つまり、その歴史を紐解くならば、遥か瑿鬥幕府期を超えてしまうのであるのだが。
その歴史において、北斗は何か引っ掛かるものを感じていた。
瑿鬥城がその現在の規模に達する前に、既に道灌はこれを鎮護の神としていたのだ。しかし山王社は明暦の大火で炎上、将軍家綱によって現在の地に移築されているのだ。場所も、そして守るべき対象も変わっていてもなお、この寺社は鎮護としての役を果たし続けているということか。
祭神は
事前の調査では、そこまでしか分からなかった。
北斗は溜め息を一つ吐くと、頭上に広がる夏の夜空を展望した。
あの浅草寺の事件も、まだ分からないことばかりである。そればかりか、昨晩には殺人事件までが起きている。明日にでも、その進捗状況を綾瀬から聞くことはできるだろう。あの外国人が浅草寺を皇城の鬼門として霊域を破壊したのであれば、当然裏鬼門であるこの地にもやってくるはずである。
しかし真実は違う。
自分でも否定したが、方位計測術が曖昧では呪術は意味をなさない。現在の皇城から見て、そして瑿鬥城から見て正確な艮、つまり北東に存在しなければ、鬼門の守護にはならないのである。
だから、浅草寺は鬼門守護の寺社ではない。
だがこちらは違う。瑿鬥城本丸、現在の東御殿書院からの実測で、正確に裏鬼門の方角と合致したのである。
その神社が、自ら皇城の鎮を担うと広言している。それはつまり、日枝神社側が、自らの寺社に絡められた方位呪術を理解していることにはならないか。
瑿鬥城は、そうまでして霊的側面からも守護されていた都だったのだ。如何に鎖国をしていたとはいえ、当時は日本の中心は近畿だったのである。そこから考えれば、このような東国の僻地に設けられた都が、さしたる内乱もなく、数百年の栄華を満喫していたこと自体が不自然である。
その瑿鬥の霊的側面守護を、この神社が一枚噛んでいるとしたら。大陸地相呪術、別名風水。日本に渡来した霊的技術は、北斗の学ぶ墨曜道となって、今もこの都に息衝いているのか。
そこまで考えて、北斗は重い腰を上げた。
彼としてはこの地の意味合いが多少なりとも分かって来たところなのだ。外国人の真意を探る為にも、夜明けを迎える覚悟も辞さないというところだったが。
このまま一睡もしないのであれば、明日からの業務にも支障をきたす。何より、不明確なままの情報からしか掴んでいない自分には、分が悪すぎる。
今日はもう帰るとしよう。革靴の底が玉砂利に踏み出され、じゃりと音を立てる。
その音に重なるようにして、何かの気配が正面から近づいてくる。
はっとした北斗は、目を闇に凝らす。足音はない。敷き詰められた玉砂利は、その上を歩く者があれば必ずや音を立ててしまう。
呼吸もなく、ただ気配のみが近づいてくる。人ではないか。
正体を探るべく感覚を伸ばす北斗を遮るように、風が樹々を揺らす。小波が四方から北斗を包み込み、探知感覚を狂わせる。ごくりと口中の唾を飲み込み、北斗が半歩退こうとしたときであった。
<待テ>
声がした。
いや、声ではない。北斗の意識に直接呼びかけてくる、何かの思念。誰何の声を発するより早く、闇の中から白い毛皮が姿を現した。
それは一頭の猿であった。
この地は丘になってはいるが、山中というわけではない。このような寺社の敷地内で、猿がいようとは。
しかし次の瞬間、北斗は雷に打たれたもののように身を硬直させた。日枝神社の祭神、山王の名を持つ神は、遣いとして猿を用いるではないか。
北斗は慌てて膝をつき、頭を垂れる。
<我ガ分カルカ……主モ力アル者ダナ>
「……は」
このようなことなど、今までに遭遇した事もない。まさか、神域で神自身から語りかけてくるとは。
<ナラバ言葉ヲ残ソウ。東ニ気ヲ付ケヨ>
「東とは……!?」
<地ヲ巡ル青龍ガ毒ヲ飲ミコンダ……急ゲ。イズレ頭ヲ砕カレヨウ>
青龍は四神相応で東の守護。
「それはどういう……!」
北斗はがばりと頭を起こし、重ねて問いかけようとする。
だが、境内は再び無人のまま、その果ては夜闇に飲まれたままであった。
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