第六章第三節<黒衣の宰相>

 吾妻橋の欄干から下を覗くと、夏の日差しに隅田川の水面がきらきらと光って見えた。時折、光の加減で強く目を射るような閃光をも放つ川の流れに身を映すようにもたれる綾瀬は、しばし無言のままであった。


 話がある、ということで呼び止められた沙嶺と宝慈であったが、当の綾瀬がこの様子では埒が開かぬ。


「綾瀬、話というのは何ですか」


 痺れを切らした沙嶺の問いかけにも、綾瀬は微動だにせぬ。腹を括った心算だったのだが、いざ面と向かうと、急に己の決心が揺らいでいく様がわかる。話すべきか、このまま立ち去るべきか。なおも迷う綾瀬に、宝慈が助け舟を出す。


「内務卿の手紙の話かぁ?」


 その言葉に、綾瀬は顔を上げた。


 あの事件は、いつしかうやむやのままに終わってしまっている。真実はどうあれ、西郷隆盛という反政府要素の消滅は明治政府にとって喜ぶべきことであり、また大久保暗殺は石川藩志士の凶行ということで片付けられてしまっている。


 そうだ。この二人は、あの川路が直接呼び寄せ、あの手紙の一件に関わっていたではないか。新たに裏の情報を一つ流したといって、事態が急激に悪化するわけでもない。


 今度こそ腹を決めた綾瀬は、くるりと振り向くと欄干に背を押し当てた。


「さっき、浅草寺の気配がどうだとか、言ってたよな?」


 むっとする熱気を孕んだ風が川縁を吹き抜け、じっとりと汗ばんだ肌に不快な感覚を残して去っていく。


「ああ」


 沙嶺は、しっかりと頷いた。


「神社や寺には、それ相応の神気というものが必ずある。だからこそそうした土地は聖域とされ、俗世と切り離された空間だとされている……」


 言葉ではよく理解できなくても、感覚的には分かる。いや、日本人ならあの鳥居を潜ったり境内に足を踏み入れたときの、不思議な荘厳さは誰しも分かるはずだ。


「それが、浅草寺にはない、と?」


「ないとは言わない」


 浅草寺は古い寺社だ。それだけ大地に染み込んだ聖域が、おいそれと消失することなどありえない。


「だけど、異変が起きていることは確かだよ」


 沙嶺は、その感覚を言葉には出来なかった。


 確かに神気はある。しかしそれは、ひどく掠れ、薄れ、歪んでいる。まるで、この場にいながら遥か遠くの音を聞き取ろうとしているような感覚だ。


 一つ確かなことは、音の発生地、つまり神気の源は、今の浅草寺からは失われているということであった。


「実はな」


 重い口を開き、綾瀬は遂にあの情報を言葉にした。


「数日前、浅草寺で少年が外国人に襲われるという事件があった」


 宝慈は眉をひそめる。確かに、あのような殺しを見た後で聞く話ではなさそうだ。


「その少年は、あんたらと似たような服を着ていてな。自分のことを僧侶だと名乗った……名は、命堂圭太郎」


 最後の名を口にした途端、綾瀬は眼前の二人の気配が一瞬で変化する様を感じ取った。


「知ってる名か」


「無論」


 沙嶺が頷いた。


「東華開祖、空海の転生とも謳われた少年だよ……今は高野の金剛峰寺にいるはずだが?」


「それがどういうわけか、この東享にいるんだよ。俺の仲間も会ってる。間違いねえ」


 曼華経は現在、大きく二派に分かれている。


 高野山金剛峰寺を総本山とする東華派と、比叡山延暦寺に霊的中枢を設ける帝華派。圭太郎が東華であるならば、沙嶺と宝慈は共に帝華の流れを汲む宗派に属していた。高野山がその存在をひた隠しにしつつ、その霊威を高めていた少年僧を放ったことだけでも驚愕に値するというのに。


 この東享で、一体何が起きているというのか。


「話を戻すぞ。その夜、外国人が浅草寺の境内で、鶏の首を斬っていやがった」


 ぼりぼりと首を掻きながら、宝慈が深い溜め息をつく。その行為は、誰の目から見ても浅草寺の聖域を汚す目的であることが窺い知れるからだ。


「俺が知りたいのは外国人の正体もそうだが……どうして、浅草寺じゃなくちゃいけなかったか、ってことだ」


「なるほど」


 浅草寺は天帝宗系の寺。そういう繋がりであれば、自分たちを呼び止めたのも納得がいく。


「だけど、俺たちでも浅草寺については詳しくないんだよなあ」


 大きな欠伸を一つしながら、宝慈が綾瀬の期待を裏切るような一言を漏らす。


「浅草寺自体の歴史は古いけど……もし手がかりになるのなら、天海という名の僧侶について調べてみるといい」


「てんかい、だ?」


 聞き慣れぬ名を唐突に出され、綾瀬は面食らった声を出した。


「黒衣の宰相の異名を持つ、瑿鬥幕府最高の僧侶の名前だ」


 家康、秀忠、家光。鑟川三代に渡って絶対的な帰依を受けたこの僧侶は、瑿鬥期を代表する僧侶として名高い。


「天海は瑿鬥幕府を霊的に守護していたとも言われているその呪術の一端が、浅草寺に絡んでいるのかもしれないってことだよ」


「もしその話が本当だとしたらよ?日本人でも知らねえような話を、なんだってその外国人は知ってやがる?」


「そこまではさすがに分からないよ。今の話だって、確証があるわけじゃない」


「そうかいそうかい」


 肩を竦め、綾瀬は空を仰いだ。


「ま、でも最初から考えりゃ、お互いに得るものはあったって訳だ。礼を言うぜ」


「あまり力になれなくて、済まなかったね」


「いやいや」


 綾瀬は妙ににやついた顔で首を横に振った。


「これは俺の勘なんだけどよ……あんたらとは、また顔を合わせるような気がするんだよな」


「どういう意味だあ?」


「俺の勘は良く当たるんだぜ?」


 宝慈の問いには答えず、綾瀬はくるりと背を向けた。そのまま早足で歩き出そうとしたが、数歩進んだところで足を止める。


「迷惑かけついでに、もう一つ聞いていいか?」


「どうぞ」


「もし、次に外国人が寺を狙うとすれば……どこだか分かるか?」


 浅草寺を狙った理由も分からないのに、そんな問いに答えられるわけがない。しかし、答えに思い当たるものが何もないわけでもない。


 浅草寺は俗説によれば、瑿鬥城の鬼門守護とされているといわれている。無論それは俗説に過ぎず、実際の計測においても当てはまらないことは沙嶺や宝慈でも知っている。


 だがそれを、外国人が信じているのだとしたら。


 浅草寺と並んで、もう一つ、江戸城の鬼門とされている寺社がある。こちらも俗説といえばそれまでだが。


「……寛永寺」


「承知した」


 その言葉の真偽も確かめずに、綾瀬は橋から再び浅草寺に続く道へと、姿を消した。

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