第六章第二節<看破>

 唐突に膝の力が抜け、沙嶺はがくりと手を地についた。すぐ横にいた宝慈は、沙嶺の異変に慌てて身を屈めて肩を貸す。


「沙嶺?」


「今、私の横を男が通らなかったか……?」


 言われた宝慈は急いで頭を巡らせども、周囲は野次馬どもでごった返している。男、とだけ言われても特定は出来ない。


 沙嶺のように視覚には頼らない感覚で把握できるのならば、この人込みでもどうにかなるのかもしれないが、宝慈にはどうしようもなかった。


「わからん……すまねえな沙嶺」


 詫びて見せる宝慈の口調こそ、いつもと同じ間延びしたものであったが、沙嶺はその言葉の中に力になれない自分の不甲斐なさを悔やむ心を感じ取った。


「ありがとう、もういいよ」


「誰がいたんだ」


 誰、と聞かれても知った相手ではないのだから答えようがない。沙嶺が感じたのは、常人では決して持ち得ないような激情を、その胸のうちに宿した修羅の相だったのだから。


「鬼相をした男だ……咄嗟のことで、それだけしかわからなかった」


 刀を持っているかも知れぬ、ということは敢えて伏せておいた。あの時の、困惑した自分の感覚が一部信用できないから、ということもある。


 しかし、何故か沙嶺はそのことは、今は口にしないほうがいいというような気がしたのだ。納得したようなしないような、どちらともつきかねる表情で宝慈が頷いて見せたときであった。


「よぉ」


 聞き知った声に、二人が振り向く。


 視線の先には、一人の警官服姿の男がいた。伸び放題の髪は相変わらずそのままだが、今は後ろできっちりと一つに束ねてある。一応は職務ということを意識してだろうか、男の顎を覆う無精髭は今日は見られなかった。


 紺色の警官服に、腰には一振りの刀。その出で立ちに宝慈は一瞬戸惑ったが、沙嶺はその声色から相手が誰であるか、すぐに分かっていた。


「綾瀬」


「こんな場所で会うたぁなあ……奇遇ってやつか?」


 沙嶺の口にした名から相手の正体が分かったが、それでもなお綾瀬の風体に警官服は見慣れぬものがある。なおも呆然としたまま立っている宝慈の胸板を拳でとんと叩くと、綾瀬は人垣の向こうを見やった。


「遊女が殺されたってだけなら珍しくもないがな……あそこまでやられると、ちと胸糞悪い」


 綾瀬の言葉から、二人は人垣の向こうにちらりと見えたあの茣蓙を思い出した。表面にまでどす黒く血が染み出していることから見ると、あの下には相当に無惨な屍骸が隠されているのだろう。


「股が臍まで裂けてやがったし、腸もいくつかなくなってやがる……こんなひでえ殺しは見た事ねえよ」


「号外が配られていたんだけどなあ」


 宝慈は捨てるに捨てられず、懐に押し込んでいた一枚の紙を綾瀬に差し出して見せた。


「あぁ、見世物小屋の看板みてえなヤツだろ?」


「それが」


 そのときになってはじめて、沙嶺が話に割って入った。


「あながち間違っていないとしたら?」


 沙嶺の一言に、綾瀬の表情が変わった。何かを知っているのか、それとも。


「どういうことだい」


「あの女性の方の屍骸、微かではありますが邪気があります。普通に殺されても念は残りますが邪気はない」


 つまり、そこには何か邪なものが関係していると言うこと。


 綾瀬は数日前の浅草寺での事件を思い出していた。奇妙な少年僧。そして自分を導いた、あの得体の知れぬ女。あのことは、警察内部でも川路をはじめとした、ごく一部のものしか知らないはずだ。


 報告を受けた当の川路ですら、疑心暗鬼という表情を徹頭徹尾崩すことはなかった。


 これがただの警官から受けたものであったなら、笑い飛ばしていたことだろう。直属の隠密たる自分と鳴山北斗の両名からの話であるからこそ、軽々しく扱わなかったことは、二人が一番良くわかっている。


 だからこそ、この二人はあの事件のことなど知らぬはずだ。いや、同じ僧侶だからこそ分かったというのか。


 どちらにせよ、こちらから切り札を明かすことは出来ない。本当にこの二人に法力というものがあるのなら、先日の浅草寺で起きた事件に密接に関係することも分かっているはずだ。


「邪気?」


「そうです……恐らくあのままでは、女は確実に鬼になる。然るべき供養をし、経を上げねばならない」


「そこらへんは心配いらねえよ」


 綾瀬は大きく頷いてみせる。俺が聞きたいのはそんなことじゃない。お前たちが、本当にあの事件を見抜けるかどうかなんだ。


 しばらく無言で二人を見つめていた綾瀬であったが、視線の先の二人はそれ以上、何かを口にする素振りは無かった。買いかぶりすぎか、それとも思い違いか。


「お仕事お疲れ様です」


「お互い様よ」


 決り文句のような言葉を交し、両者が背を向けようとしたときであった。


 沙嶺の唇が言葉を紡ぐのを、綾瀬は聞き逃さなかった。


「寺に邪気……そういえば、寺の神気がそっくり消えてしまっているような気がするんだ」


「そう言われれば……おかしいなあ」


 宝慈も頷いてみせる。


 綾瀬は振り向き、二人の背中を穴が開くほどに見つめた。


 どうするか。呼び止めるか、それともこのまま行かせるか。もしかしたら、北斗や命堂圭太郎では分からなかったことも、判明するかもしれない。しかし、これが本当に彼等の「勘」であったのだとしたら、自分は機密事項を公開する愚を犯すことになる。


 数秒間思い悩んだ綾瀬は、ついに結論を出した。


「田之上! いるか、田之上!!」


「……はい!」


 程なくして、綾瀬のところけ駆けつける一人の青年がいた。同じように警官服を着てはいるが、その顔立ちや恰好からして、綾瀬のような立場ではないことが一目でわかる。


「ちぃと急用が出来たから席を外す。それまで指揮はてめえが取ってろ」


 手短に命令を残すと、綾瀬は人ごみの中に消えかけていく沙嶺と宝慈を追いかけて走った。

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