第六章第一節<鬼の宴>

 本所であった葬式の帰り道、宝慈はふと道に落ちている紙片に目を落とした。歩調が変化した事を足音から感じたのか、その横で沙嶺もまた足を止めた。


「宝慈?」


「いやいや」


 首をぽりぽりと掻きながら、宝慈はその紙をばさりと広げて見せた。


「どうした、何があった?」


「号外、だとさ」


 宝慈は穏やかな口調を崩さなかったが、沙嶺にはその心境が変わったことが敏感に感じ取れた。


「浅草寺で女が殺されたとさ。鬼の仕業などと書いているが……仏さんを面白おかしく囃し立てるのは感心せんなぁ」


 浅草寺なら、この近くだ。なるほど、いつもより往来が騒がしいのはそのせいか。それも、昼間であるのなら。


 これが夜であれば、文明開化の足音と共に夜道を瓦斯灯が照らし、往来にわだかまる魍魎の闇は片隅に追いやられるようにして小さくなる。もうあと十年もすれば、この帝都も激しく様相を変えるだろう。


 しかし、酒を酌み交わし、魍魎や鬼を笑い飛ばした男たちも、一人帰路につくときになればやはり襟元を竦ませながら歩くのだ。この国に生を受けた者であれば、誰でもが知っている。どんなにも西洋文明に浸りきり、洋服を纏い、西洋料理に舌鼓を打とうと、やはり我等は日本人なのだ。闇が払拭されたとはいえ、消し去られたわけではない。


 否、闇を消し去ることなどできはしない。強くなった光は、闇をさらに黒く、凝らせるだけである。そこここに蹲る、小さな黒い影の中から、息を潜めてじっとこちらを窺っているものは、確かに存在するのだ。


 目には見えずとも、それらは確かに我等の心の中に、生活の中に息衝いているのだ。だからこそ、葬式には経文を唱える。塩は清めであり、黒は喪に服する色とされる。


 どんなに言葉では否定していても、生活の根底を流れる風習までも西洋に準ずることは、我等には無理だ。


「行ってみようか」


 沙嶺の言葉に、宝慈は目玉が零れるかと思えるほどに大きく目を見開いた。興味本位で、野次馬と肩を並べる趣味は二人にはない。だからこそ、宝慈は沙嶺の態度に驚きを隠せなかったのだ。


「もしかしたら、本当に鬼かもしれない」


 それを笑い飛ばせるような世界には、自分たちはいないのだから。


 自分たちの退魔調伏の術がしかとあるように。この世には、鬼はいるのだから。






 女の死体には、茣蓙ござがかけられていた。


 しかし、それでもなお茣蓙の表面にはどす黒く、滲んだ血が染み出していた。死体の様子はわからなかったが、いやだからこそか、野次馬に押しかけた人々は口々に勝手なことを言い合っていた。


 浅草寺の雷門には先に進めぬほどにぎっしりと人が詰め掛けていた。既に警察が駆けつけたのか、あちこちで人々を怒鳴り散らす警官も見受けられる。


 無論、沙嶺は女の死体を見ようとしたわけではない。しかし宝慈の目には、茣蓙から零れるように投げ出された、女の左腕が見えた。肘までのそれは、抜けるように白く、細い。軽く指を曲げるように掌を上に向けたそれは、しかし二度と動くことはないのだ。


「こりゃぁ、中には入れねえなぁ」


「仕方ない」


 寺の中での殺生は禁じられている。その禁を犯すとは、無知蒙昧なる愚者か、それとも。


 しかしこの様子では、当分は近寄ることさえ難しいだろう。出直そうか。沙嶺が、そう口にしようとしたときだった。


「鬼、か」


 すぐ近くで、低い男の声がした。


 それは雑踏の中、やけに明瞭に沙嶺の耳を打った。


 声に、思わず沙嶺は身を震わせた。その声は、確かに耳に響いた。しかしそれ以上に、沙嶺は何かを感じ取ったのだ。


 声の主は、自分のすぐ前にいる。宝慈を呼ぼうとした喉が、掠れた音しか発せられぬ。それでもなお息を吸い込もうとすると、ひゅうと高い音を鳴らした。


 沙嶺は、唐突に眼前を覆い尽くすほどの岩壁に対峙しているかのような感覚に陥った。人垣を前にしての感覚ではない。分厚く、頑なに行く手を阻む、障碍としての壁。


「これが誠の鬼なら……遊女などではなく、腐った魂が餌には相応しい……」


 押し殺しているようにも聞こえる声。


 そのとき、沙嶺の感覚に介入してくるものがあった。激しい感情。抑圧された流れが、一気に堰を飲み込むような、ただ圧倒的な力を持つもの。怒り、哀しみが幾重にも折り重なった末、その両者をはるかに凌駕する念となったもの。


 それが、沙嶺の心を打ち据えたのだ。


 沙嶺は震える指先を、虚空に伸ばす。声の主を呼び止めようというのではない。傍らにいるはずの、宝慈の法衣の袖を掴もうと指で空を掻く。


 人だ。声の主は、確かに人。しかしその魂は、修羅。


「政府の屑どもを……食み散らせば良いものを」


 声と共に、沙嶺の呪縛は嘘のように消えた。


 男は、確かに沙嶺の傍らを通って姿を消した。


 その刹那、鞘が鳴る音を、沙嶺ははっきりと耳にしていた。

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