間章Ⅴ<雷帝招来>

 広小路を音もなく進む、一つの影があった。


 それは本当に影なのか、それとも影を模したような服を纏った者なのか。たとえ擦れ違った者があったとしても、どちらが真実か気づくものはいまい。それどころか、擦れ違ったことにすら、常人であれば気づかぬであろう。


 吾妻橋を渡り、広小路の中ほどまできた影は、不意に進路を右に転じた。


 影が向かう先は、浅草寺風雷神門。道行く人もなく、しんと静まり返ったその通りで、影が止まった。


「む」


 声がする。男のようだ。


 纏った黒のコートと、奇妙な大陸風の衣装とは対照的に、男の肌は白い。女の化粧をしているでもなく、また血の気が失せているようでもない。ただ白く、それ以外の何者でもない。それはおよそ、生きとし生けるものが持つ、肌の色ではないと思えるほどの、色。


 男は小さく唸ったかと思うと、手をあげて鍔広の帽子を脱いだ。それから一度、風雷神門を見上げたかと思うと、再び帽子を頭に載せ、疾走を始めた。




 男は孔雀門梅園院の角を曲がり、第二の門である寿門を駆け抜ける。細い参堂と石段を凄まじい速度で上っていく男の足が、ふと止まった。


 正面に見えるのは、浅草寺伝法堂。だが男の視力は、全く別のものを捉えていた。


 堂全体に絡みつくような、白い霧のようなもの。それが男の眼前で、見る間に蝟集していく。


 男の眼がそのとき、さらに細められた。


 まず、視覚に飛び込んできたのが巨大な上腕部。その下の、指に当たる部分に何かが見えた。


 それが、着物をはだけられ、ぐったりした女の足であることは、すぐに分かった。女を捕らえ、犯したのか。しかしあの様子では、既に臓腑は食われているのだろう。


 牙の間から、瘴気に満ちた呼気が漏れた。ごつごつとした骨格は不気味な肉腫に覆われた鬼の顔となり、伝法堂の上から男を睥睨している。


「何をしている、男」


 鬼が吼えた。


「小賢しい、ワシが見えると申すか」


「確か、浅草寺の霊域を破壊するのはアレクセイの仕事……あのタロット使いも、一応は役に立つか」


 鬼の言葉を全く無視し、男が呟く。


「だが、これでは霊力を有象無象に食らわせているのと同じ……全く、もったいないことをする」


「貴様!!!」


 天が割れるかと思えるほどの轟きが、鬼の口から発せられる。まるで落雷を幾条も束ねたかと思うほどの轟音が大地を震撼させるが、男の顔には揺らぎ一つ見えぬ。


「去ね、不浄なる妖あやかし……輪廻の箍より外れた魍魎よ、汝が棲家に疾く帰るべし」


 男は懐から一枚の縦長の霊符を取り出す。黄色の紙に朱墨で書かれたそれを指で挟むと、途端にその先端から炎が吹き上がる。


「北帝勅吾紙書符、打邪鬼敢有不伏者……押赴鄷都城抬、急々如律令!」


 男の口から、大陸呪術に見られる霊符浄化の咒が発せられる。


「伏願奉、九天応元雷声普化天尊!!」


 左の指に挟んだ、燃え盛る霊符をコートの内側から抜き放った長刀で貫く。


 夜の闇を引き裂くばかりの落雷が、男の携える長刀を打ち据えたかと思わんばかりの強烈な光が宿る。


「人間の分際で……調子に乗るなァ!」


 女の骸を投げ捨て、鬼が男に飛び掛ってくる。


 だん、と足を一度大きく踏み出すと、男は鬼に向かって疾走する。いや、鬼の下を凄まじい速度で駆け抜けたのだ。


 頭上を擦過する爪を躱し、一気に懐に飛び込んだ男は、眼前に迫る鬼の眉間に、輝く刀を突き立てた。


 この世のものとは思えぬ、断末魔の叫びを上げる鬼。たちまちのうちに鬼はその実体を捨て、霧に姿を変える。


「ふん」


 男は動揺も見せず、刀を頭上に突き上げる。


 その瞬間、周囲を真昼に変えるほどの閃光が弾けた。


 刀身から放たれた天神の戒光が、実体を消した鬼の瘴気を焼き尽くす。


 ぶすぶすと焦げ臭い黒煙が立ち込める中、男は刀を腰に吊った鞘に戻す。ぼろぼろと炭化した霊符を指で弾き、宙に散らすと、男はやがてその場をあとにした。

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