第五章第四節<鬼門>

 何も言わずに、いきなり姿を消した綾瀬は二人がいくら待っても戻ってくる気配はなかった。


 真夜中とはいえ、さすがに一般人を警視庁の中に入れたままでは何かと問題になろう。それは川路直属の隠密である、綾瀬や北斗が共にいるとはいえ、あまり弁解できた行動ではない。探しに向かおうと北斗が腰を浮かせたとき、廊下をやってくる足音が聞こえた。ドアを開け、医務室へと戻ってきた綾瀬の手には、一枚の大判の地図があった。


「何してたんですか」


「探すの手間取っちまってな」


 悪びれもせずに、綾瀬は地図を持ったまま、それが広げられるだけのスペースを求めて辺りを見回す。


 机があることにはあるが、その上にはファイルだの医学書だのが無造作に積んでいるところだらけであった。仕方なく諦めた綾瀬は、手近な寝台のシーツの上に、その大地図を広げた。


 それは新品ではなく、既に誰かの手によって幾つかの書き込みとメモが残されたものであったが、綾瀬はそれを無視して一点を指差した。


「最新番地入 東享市全図」と書かれたその中で、皇城の右上に位置するその場所には、浅草寺と書かれてある。


「ここだ」


「そんなことはわかってますよ」


 さも心外だと言う風に、北斗は溜息交じりで言い放つ。


「じゃあ聞くが……ヤツが奇行に走る場所は、浅草寺じゃなきゃいけなかったのか?」


 綾瀬の言葉の意味が分からず、北斗が口を噤む。それからもしばらくの間、黙したまま地図を見つめていた綾瀬は、ふと低い声で呟いた。


「浅草寺にゃ……何があるんだ?」


「六四五年」


 間髪をいれず、傍らに座っていた圭太郎が口を開いた。


 元々答えを期待していなかった問いであったが故に、綾瀬は驚きというよりは戸惑いの視線を圭太郎に向ける。


「飛鳥の時代、桧前ひのくまという姓の兄弟が小川より聖観音像を拾い上げたことに始まってる」


「知ってるんですか!?」


「浅草寺っていやぁ、天帝宗系の寺院だろうが? 俺を誰だと思ってんだよ、北斗のおっさん」


 胸を張られ、北斗は気づいた。圭太郎の使う術は曼華経のものだ。ということは、仏教においても表立った面ではなく、隠された密儀という傾向の強いものだ。


「六四五年とは、また古いですね」


「帝華系の寺になったのは、七堂伽藍や法華常行の二堂が出来た時代だから、もっと後だけどな。それだって剳倉かまくら幕府よりは古いぜ?」


 まるで自分が立てた寺であるかのように、自慢げに話す圭太郎。その言葉をじっと聞いていた綾瀬は、頭をぼりぼりと掻きながら口を挟む。


「それだけか?」


「……え?」


 綾瀬は、北斗を顎で示すと言葉を続ける。


「さっき、こいつが言ってただろ? 境内を血で汚すってことは、神社や寺なんかへの冒涜だってよ?」


 確認するように見ると、北斗は視線の先で無言で小さく頷く。


「じゃあ、それを浅草寺ですることには、どんな意味があるってんだ?」


「天帝宗家に喧嘩売ってやがるってことか!?」


「いや……」


 そんなことではないだろう。


 維新後に入ってきた外国人が、日本の宗教に精通しているとも思えないし、それならば一派にだけ抵抗しようというのもおかしい。曼華経が二派に分かれていることくらい、綾瀬も知っている。東華と帝華、だが両者がどのような相違を持っているのかまでは、とてもではないが分からない。


 日本人であってもそうなのだ。たかだか開国後十年足らずしか経過していない、その間に外国人が日本の宗教についての造詣を深めているとは、にわかには考えがたい。


 そのまま、静寂が時を刻む。




 しかし、それは半刻と続かなかった。


「……北東、ですね」


「ん?」


瑿鬥えど時代の書物にあるんですよ……『御府内備考』という書物にね。『浅草は御城のうしとらに当たり』」


 そこまで言いかけ、北斗は立ち上がった。あちこちの引き出しを派手な音を立てて漁っていた北斗は、やがて竹の物差しを一本持ってくる。


「御城とはすなわち、瑿鬥城……その霊的中心は本丸に当たります」


「んなこと言ったって、今は瑿鬥城なんかはねえだろうが」


「ええ、しかし現在は皇城、東御殿」


 北斗は物差しにしたがって、何本かの線を引いてみる。結果、皇城から北東に引かれた線は浅草寺の斜め上を掠めて伸びていた。


 溜息と共に、北斗は定規と鉛筆を放り出す。


「てめえがさっきから何してんだか、俺にはちっともわからねえんだけどよ」


 北斗は机に肘を尽き、指を額に当てた恰好で、落胆を隠せない表情で呟いた。


「北東とはうしとらの方角。墨曜道で言うところの、鬼門に相当します」


 大陸の風水ではあまり論議されない要素であるが、古来よりこの艮の方角は、特別視されてきたものであった。日本人が独自の要素を盛り込みながら流用した、この風水呪術においては、四神相応同様、重要視されているものの一つであった。


 もし、浅草寺が瑿鬥城から見て北東の方角にあるとしたら、浅草寺は鬼門を守護する寺社だと言う事になる。


 しかし、正確な北東の線上には浅草寺はない。とするならば、北斗の仮説は脆くも敗れ去ったことになる。


「存外、昔の奴等ってなぁ、適当だったのかも知れねえだろ?」


「こと呪術に限って言えば、そんなことはありませんよ」


 北斗は手に持った定規を地図の上に放り投げる。


「厳密な規定なくして、呪術の力は働きません……逆にいえば、だからこそ一部のものにしか伝えられず、守られてきた」


 つまり、正確な北東の方角にないのであれば、浅草寺は鬼門守護の役割を持ってはいないことになる。


 しかし、浅草寺が確実に何等かの役割を担っていることを、北斗は直感から信じていた。


 そうでなくては、あの男の行動に説明がつかない。


「もう遅えから、お前は帰れ」


 綾瀬は圭太郎の背中をぽんと叩いた。


「こいつ、道まで送ってくわ」


「頼みます」


 ばたんと戸が閉まる音を聞きながら、北斗は何か釈然としない思いのままに地図上に視線を落す。


 逆転の発送。


 浅草寺が鬼門守護ではないのなら、瑿鬥城や皇城の鬼門には何があるのか。そして本当に現在の東享では皇城は霊的守護を施されていないのか。


 北斗の視線は浅草寺から皇城に動き、そして通り越して方角的には逆、つまり裏鬼門たるひつじさるへと動く。鬼門に何もないとすれば、その逆は如何に。


 視線が止まった。


 その先には、総理大臣官邸の裏、つまり日吉山王大権現社が、線と交わっていた。

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