第五章第三節<術師>

 消毒液を染ませた脱脂綿で傷口に触れると、圭太郎が僅かに声を上げた。上半身を脱いだその躰は、まだ二十歳に満たない少年にしては均整の取れた筋肉が纏わりついていた。筋組織の束自体は決して太くはないが、無駄な肉がついていないというころから脆弱という印象は受けない。


 そして、肩の傷は出血の割に深いものではなかった。


 脱脂綿で、皮膚に付着した血を拭き取ってから、北斗は軟膏を塗った布を当て、包帯を巻いていく。治療の間中、圭太郎は一言も口を聞く事無くじっと大人しくしてたが、包帯が巻き終わった途端に好奇の輝きを宿した瞳を北斗に向けた。


「おっさん、警察官だったのか?」


「厳密には少し違いますけれどね」


 そうは言われても、圭太郎はすぐには納得できない。何故なら、浅草寺をあとにした馬車が向かった先は警視庁の建物だったからだ。そして、今もこうして治療されている医務室も、その中にあるものであった。


「ま、俺らの仕事はこんな辛気くせえトコじゃねえからな」


「綾瀬」


 入り口の近くで腕を組んだままぼそりと呟く綾瀬を、北斗が一喝する。


「ところで、圭太郎君はこんな夜更けにどうしてあそこにいたんですか?」


「おいおいおい」


 圭太郎は悪戯っぽく笑ってみせると、錫杖を指差してみせる。


「坊主が寺にいちゃ、いけないのか?」


「いや、そうではなくて、ですね」


 北斗は眼鏡を押し上げると、圭太郎に鋭い視線を向ける。それは今までの温和なものではなく、取り調べにおいては何一つ見逃さぬと言わんばかりの、強い威圧感を伴うものであった。


「私が助けに入らなければ、あなたはあの時殺されていたかもしれなかった」


 北斗の言葉がさも真実であるといわんばかりに、圭太郎の肩の傷が鈍痛を訴える。


 確かに、あの不気味な獣二頭に組み敷かれていた圭太郎は、あのままでは無防備な首筋を牙によって引き裂かれていたかもしれなかった。さもなくば、身動きが取れぬままに生きながら臓腑を喰らわれていただろうか。


 どちらにせよ、命が危険に晒されている状況に変わりはない。


「あなたが戦っていた、あの外国人は誰なんですか?」


 射竦められるほどの視線を向けられながら、しかし幸運なのは圭太郎に何等やましい事がないと言う事実であった。如何に強固な意志を持っていても、この視線の前では脆くも崩壊してしまいかねない、そんな不思議な力を持つ眼力だ。


「……知り合いとふざけあってたようには見えねえだろ?」


 圭太郎は法衣を着ると、肩を竦めてみせた。


「なんだか知らねえけどよ、あいつ、境内で鶏の首斬ってたぜ」


 それを聞いたときの、北斗の顔色が変わった。瞳からは急速に力が失われ、瞳孔は奈落のような空虚さを湛える深淵と化していた。


「それに、外国人ならあのおっさんのほうが詳しいんじゃねえか? さっきもそう言ってたんだろ?」


「てめえは年上の男は全員、『おっさん』呼ばわりか?」


 身を起こした綾瀬は、苦笑しながら手近にある椅子を引き寄せた。


「ここじゃあ話せねえよ、特にてめえがいる前じゃな」


 圭太郎の額を軽く小突いてみせると、綾瀬は考え事に没頭している北斗に向き直った。蚊帳の外にされた圭太郎が何か文句を言っていたが、綾瀬はそれを無視して言葉を続ける。


「鶏の首を斬る、ってなぁ……どういうことだ?」


「穢れ、ですね」


 不用意な殺生による流血は、すなわち血と死の穢れとなる。特にそれが神社仏閣などの聖域で行われた場合は、神聖な場を無効化するほどの対向咒力を発揮する場合すらある。


「単なる悪戯ってわけじゃあ、ないんだな」


「ええ、しかし疑問はあります」


 日本人ですら知らぬものがある、そうした概念を、あの外国人は意図して行ったのかどうか。そしてもう一つは、浅草寺を選んだ理由は何か。


「ただ一つ言えるのは、あの男もまた、何等かの呪術を使うと言う事です」


 圭太郎を襲い、北斗が撃退したあの獣は、明らかに実体ではない。あの男が何かの呪術を使うことで、呼び出された特殊な存在だ。


「詳しい事は分かりませんが、私の反閇が効いたと言う事は……式神や護法と似たようなものでしょう」


「ホントかよ!? あいつ、護法まで打てるのか!?」


 口にしてから、しかし圭太郎は自らの言葉が真実ではないことを知っていた。


 あの男と対峙したとき、自分と同じような道力は何も感じなかった。それはすなわち、密教などによって使役される護法ではない。


 では、あの獣は何か。呼び出すときに口にした言葉は、何かの呪紋か。


 そしてもう一つ、あの男が手に持っていた札の正体は何か。


 北斗であっても、西洋における呪術には精通してはおらぬ。恐らくは式神、護法といったものとはまた別の仕組みがあるのだろうが、その本質は人が操るものであれば、相違ない。


 分からないことずくめの今、推論だけで事を運ぶのが危険であることは、圭太郎にも理解は出来た。


「まだ確証は出来ませんけれどね」


 深く頷く北斗の横で、綾瀬は唐突に立ち上がった。


「ちょっと待ってろ」


 二人が止める間もなく、乱暴に医務室のドアを開けた綾瀬は、そのまま廊下に姿を消してしまった。

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