第五章第二節<墨曜道>
鳴山北斗と名乗ったその男を、少年は改めてまじまじと見た。
たとえ街中で擦れ違っていても、この男が先刻の獣二頭を前に傷を負う事もなく撃退するだけの力があるとは思えぬ。眼鏡をかけた、如何にも役人風のその男に、少年はにかっと笑って見せた。
「ありがとな、おっちゃん」
差し出された手を右手で握る。
「知ってるぜ、これ西洋風の挨拶なんだろ?『しぇいはん』なんて中国語みてえな名前だけどな」
「正確には『シェイクハンズ』ですよ。日本語にすると、握手と言います」
「へぇ」
感心したように溜息をつくと、少年はぐっと握る力を込めた。
「俺は
腕を上下に揺らそうとしたとき、左手に持っていた錫がバランスを崩した。咄嗟にそれを掴もうと左手を伸ばすが、それよりも早く肩から指先に至るまでを傷の痛みが走り抜け、圭太郎は思わず顔をしかめる。
指は麻痺したように動きを止め、錫は玉砂利の上に落ちた。
「傷の手当てが必要ですね……こちらに私の馬車がありますから」
強がりを言ってみせようとしたが、傷は圭太郎が思っているよりも深いようだった。半身が麻痺するほどの痛みが疼き始め、圭太郎は額に汗を浮かべながら頷いた。
「だけどよ、さっきのアレ……何したんだよ」
見たところ、圭太郎の知る範囲にはない。確か、北斗は自分を『土御門の秘を学ぶ』と名乗った。土御門といえば、日本における墨曜道の本家とも言えるほどの家系である。
院政末期、日本の貴族が弱体化の一途を辿る様相と呼応するかのように武士階級が力をつけ始める時代があった。その際、公家のように伝統文化をもたなかった新興の武家は公家の文化ともう一つ、行動規範その他を統括支配していたこれら墨曜道を取り込んでいったのだ。
そして武家政権である鎌倉幕府が成立すると墨曜道は政権を守護する霊的技能として機能することになる。一説によれば、
この間、墨曜道の二大勢力と言われていた安部家、賀茂家は対照的な状態にあった。幕府の支持を得、関東にも勢力を伸ばし続けていた安部家の一方、賀茂家は次第に凋落していくことになる。
そして南北朝時代を迎えるにあたり、安部家は土御門家を称することになり、新幕府においても暦博士と天文博士を兼任するなどして勢力の衰えを見せる事無く、日本の政治を支え続けたのだ。
しかし、明璽の時代になると政府の様相は一変した。明璽三年、つまり一八七〇年に出された「太政官布告七四五号」、通称「天社神道禁止令」によって、墨曜道は政府から厳しく弾圧、迫害を受けることになり、これに代わり国家に認められた
だが北斗を見る限り、墨曜術師の全てがいなくなったわけではなさそうである。
「あれは墨曜道の
「歩くだけで……か?」
「まあ、いろいろなやり方がありますけれどね」
北斗は圭太郎の好奇心の強さにやや辟易したという風に苦笑して見せた。
「それからさ、さっきのあの化け物、一体何なんだ!?」
「やれやれ、怪我をしているというのに元気ですね」
「なあ、教えてくれよ、なあってば」
「教えるのはやぶさかではありませんが……それよりも、傷の手当てが先だと思いますけどね?」
北斗が馬車へと案内しようと、社に背を向けたときであった。こちらに向けて、走ってくる人の気配がする。夜のしじまの中、乱れた呼気がここまで聞こえてくる。
「誰か来るぜ」
「大丈夫ですよ」
身構えようとする圭太郎を宥めると、北斗は大きな声で叫んだ。
「もう終わってますよ!! 急がなくても結構です!!」
それから圭太郎の背を押すようにして促すと、二人は通りに向けて、すなわちこちらにやってくる人を出迎えるような形で歩き出した。
人影は、すぐに姿を現した。かなりの距離を走ってきたのだろうか、全身から汗を流しながら、それでも歩調を全く乱さずに男が早足で向かってきていた。
紺色の着物に腰には太刀。梅沢綾瀬であった。
「てめえもいやがったのか」
「いやがったとは心外な」
「で? そこのガキは誰なんだ?」
「……とことん礼儀を知らない男ですね」
冷徹な視線を綾瀬に向けると、北斗は手短に紹介した。
「彼は命堂圭太郎。こう見えても、かなりの曼華経法の使い手ですよ」
その言葉に驚いたのは、逆に圭太郎のほうであった。自分からは、名前しか口にしてなかったのに。
「おっちゃん、なんで俺の流派を知ってんだよ!?」
「先程、あなたが唱えていた真言ですよ。
北斗は敢えて梵名の方を口にした。不動明王という名称は一般にも広く知れ渡っているところではあるが、対して
「それよりも、私はこれから官舎へ戻ります。彼の傷の手当てもしないといけませんしね……あなたはどうします」
「どうしますって……乗っけてくれねえのかよ」
「さて」
意地悪そうに微笑む北斗に、綾瀬は目を輝かせる。
「てめえら、そこで外国人に会わなかったか?」
その言葉を聞いて、北斗の顔色が変わった。
「あの男を見たんですね!?」
かかった。綾瀬にしてみれば、自分の予感をあの辻で出会った女の言葉にかぶせてみただけだったのだ。曰く、かまを掛けることで北斗の上を行こうとしたのだ。
してやったり。だがそれは同時に、自分の抱いている不吉な予感が的中しかねないことをも意味しているのだ。
「ま、そこらへんの情報は俺がしっかり掴んでるってことさ。どうすんだ? 乗せんのか? それともてめえで調べるか?」
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