第五章第一節<土御門>

 じゃり、と革靴の底で玉砂利が鳴る。踏み出される足が触れる毎に、何かを刻みつけるような音を殊更に響かせながら、一人の男が境内を進んでいた。


 むっとする熱気の中でも、男は汗一つかく事無くきっちりと一部の乱れもなくタイを結び、スーツを着こなしている。左手に大きな荷物を持ちながら、男は一人、鎮護堂へと進む。


 荷物の中で、何かが動いた。どうやら中には小さな動物が入れられているらしい。がさごそと暴れる様子を気にする様子もなく、男は無言のまま歩を進め、そして足を止めた。


 見晴らしのよい、開けた場所で男は身をかがめると、荷物を下に降ろして覆い布を取り払った。


 それは、大きな鳥篭であった。中には一羽の鶏が入れられている。男は蓋を開けると、黒い手袋に包まれた左手を差し入れると鶏の首をむんずと掴んだ。突然の荒々しい扱いに、喉も裂けよとばかりの声を放つ鶏に構わず籠から引きずり出すと、男は右手を懐に差し入れた。


 取り出されたのは、精緻な彫刻の施された短刀。


 刃が光を受けるよりも早く、男は鶏の首を一閃した。がくがくと痙攣するたびに、鶏の頚部からは暖かい血潮が溢れる。


 それは白い羽毛を汚しながら、見る間に滴り、男の足下の砂利に染み込んでいく。禍々しい液体に濡れる玉砂利が不気味に光る様子をじっと眺めたまま、男は鶏を二、三度揺さぶり、それから籠の中に屍骸を投げ込もうとした。


「なぁにやってんだよ、おじさん」


 闇の中から、突然声がした。


 男は驚くでもなく、口髭を揺らすこともなく屍骸を入れた籠からゆっくりと身を離す。


「寺の境内でそんなことしやがって……いくら外人だからってやっていい事と悪い事があるんだぜ?」


「ふん」


 男は一度鼻を鳴らすと、声のした闇に目を凝らした。


 しゃらん、と金属音が鳴る。闇が人の形を取り、そして錫杖を携える。


 いや、闇の中に潜んでいた者が姿を現したのだ。


 姿かたちは、立派な僧のものだった。黒衣に足袋、そして錫。成りこそ曼華経僧のそれであったが、纏っているのはまだ少年といえる年齢であった。


「運が悪いな、少年」


 男は手品師のような所作で、右手の指に一枚のカードを挟み込んだ。


「見た内容によっては命くらいは助けようと思ったが……致し方ない」


 カードを持った手を一閃させ、それを少年に突きつける。


 男の瞳の焦点が失われる。


「出でよ光と闇、欲望と善性を担う葛藤の獣!」


 その途端、これまで聞いた事もないような獣の咆哮があたりを引き裂いた。


 まず男の右の砂利がぐっと持ち上げられ、小山のように盛り上がったかと思えた刹那、それが爆発した。


 姿を現したのは、異形の獣だった。


 人の頭を持つ獅子。毛皮は純白であったが、首に至る部位で皮膚が次第に変質し、毛のない人の肌となっている。その先にあるのは、知性の失われた男の形相であった。人の唇は捲れ上がり、その奥からむっとする悪臭と共に人の声とは思えぬ響きを持つ轟きをあげ、太い前肢で地を掻く。


「それ、お前が呼んだのか……!?」


 少年の言葉に答える代わりに、今度は左に小山が出現。


 次に姿を現したのは、同じ異形の獣。だがこちらの毛皮は豪奢な天鳶絨のように黒い。


 実体化を終えた二頭の獣は、少年の姿を認めると一斉に襲い掛かった。柔軟な四肢を伸ばし、肉食獣の持つしなやかな美しさは致死の牙と爪を閃かせる。


 爪を躱せば牙が襲い来る。一頭を凌げば、体勢を崩したところにもう一頭が狙い撃つ。


 このままでは埒があかない。それに二対一であれば不利なことは目に見えていた。


「えぇい、もう!」


 目の前に迫り来る獣から間合いを離すようにして飛んだ瞬間、少年は肩の部位に灼熱の焼き鏝を叩きつけられたような感覚を感じた。それと共に全身を襲う衝撃に、ごろごろと躰が横転しながら吹き飛ばされる。


 だが咄嗟に受身を取っていたのか、右手一本で器用に飛び上がり、体勢を整える。


「そろそろウチから行かせてもらうわァ!」


 じゃん、と激しく錫が鳴る。


南莫なうまく 三曼哆跋惹羅赧さんまんだばさらだん 戦荼摩訶盧沙拏せんだんまかろしゃだや 沙叵乇野そはたら うん 怛羅乇たらた 訶吽かん 摩吽まん!」


 ぼたぼたと左腕を鮮血に染めながら、少年の口から真言が叩き紡がれた。


 二頭のうち、自分に傷を負わせたほうの獣の頭部に凄まじい衝撃波が繰り出される。しかし、視覚すらも歪ませるほどの強烈な空間干渉を呼び起こすだけの攻撃であったにもかかわらず、獣はにやりと嗤いつつも体勢を低く身構える。


「どうなっとるんや!?」


 狼狽する少年の前で、獣が同時に跳躍する。対する少年は、自分の術が通じぬことに気を取られ、逃げる素振りすらない。


 このままでは、少年は圧倒的な体重差を前にして地に組み伏せられ、牙と爪とで腸を食い散らかされるかと思えた。


「天蓬」


 突如として響いた声が、びりびりと鼓膜を震撼させる。獣を呼び起こした男もまた、虚を突かれたようにはっと顔を上げる。


 その声に縛られたのか、獣が動きを止めた。骨が砕けるかと思えるほどの力で組み敷かれた少年の頭の向こうで、ざりと玉砂利が鳴る。


「天内」


「やれ」


 男の命令を受け、獣は攻撃対象を変更。まだ見ぬ闖入者に向け、獣は一斉攻撃を開始。だが。


「天衝、天輔」


 ざんざんと砂利が二度鳴り、獣の苦悶の声が上がる。


 そのときになって初めて、少年は身を起こしてその光景を目の当たりにした。


 まるで、夢でも見ているかのようであった。


 現れたのは、目の前の男と同じくスーツを着た男であった。しかしその体躯から、日本人であることが知れる。紺のスーツに白いシャツが、夜闇の中でも妙に映えていた。


 一見無手に思える男が一歩を踏み出すごとに、飛び掛り薙ぎ払う獣が悉く跳ね返され、苦痛の声を上げてのたうつ。


「天英」


 都合九つ目の声があがると同時に、獣の姿は急速に揺らぎ、薄れ、消えた。


 驚いたのは男だけではなかった。自分の法力をも無効化したあの獣を、いとも簡単に消し去るとは。


「貴様」


「その機、天理に叶うときには天人合一となりて邪は自ずから避け、正は自ら到る。故に人祈念すれば天神地祇相感応し、必ず成就なすべきなり」


 形勢は逆転。


「さあ、どうする?」


 悪魔の如き燃える視線を新参の男に叩きつけると、口髭の術者はくるりと身を翻して疾走、すぐに闇に溶け消えた。


「大丈夫……ではないようですね」


 近づいて来た男は、少年の肩の傷を見ると柔和な表情を崩さずに手を差し出した。


「失礼。私、土御門つちみかどの秘を学ぶ鳴山北斗なるやまほくとと申します、どうぞよろしく」

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