間章Ⅳ<辻鈴>

 吉原をあとにした綾瀬は、一人ぶらりと夜道を歩いていた。


 これからどうしようかと何気なく考えながらも、ふと銀座の街並みや横浜の街路を思い出した梅沢綾瀬は、一人ほぞを噛んだ。


 この国が文明開化を迎え、世界に名を馳せる国として知られるようになり。そんな風にしか考えられない奴等は、愚民そのものだ。対外的にはそれまで門戸を閉ざしていたところから次々と海外の文化を流入し、それを挙って持て囃しているが。俺たち日本が開国したのは、自分たちの意志だったか。浮かれて騒ぐ前に、この現状をしっかりと見つめなければならないのに。


 大久保利通と言う男を失った日本は、いまや政府要人の暗殺と言う一言では片付けられない。


 今や、何の諸策も講じぬままにただ手をこまねいていれば、いつか日本はその臓腑を食い破られる日が必ず来る。その腹中の蟲を殺す為の丸薬は、今この手には乗せられていない。いつか暴れだすその痛みに怯えながら、日々を過ごすことなどまっぴらだ。腹中の蟲を肥やす為に生きなければならない人生など、こちらから願い下げだ。


 夏の夜風が正面から吹きつけ、綾瀬の髪を煽る。




 ちりん。




 風の音に混じり、鈴音が聞こえたような気がした。


 足を止め、辺りを見回してみる。不思議と人通りは途絶えていた。幾度となく馬車でも徒歩でも通った道のため、多少は暗くても勝手は分かる。しかし、今の時刻でこうまで完全に、人の流れが途切れることなどあっただろうか。


 今までに感じた事の無い違和感に、綾瀬は自然と足を止めていた。


 押し寄せてくる閉塞感。誰もいないのに、自分がこうして一人でいることを誰かに見られているような感覚。そのくせ、いくら神経を澄ませてみても、人の気配は全く感じられない。


 おかしい、という感覚が瞬時に襲ってくる。夏だというのに、ふつふつと肌が粟立つ。


 いくら町中でこうした錯覚に襲われたとしても、後少し進めば隅田川に出る。川縁まで行けば、さすがに誰もいないということはないだろう。


 綾瀬は意を決し、駆け出そうと辻を曲がった。




 ちりん。




 足が止まった。目の前に、美しい女性がいた。


 その輪郭が、ぼうっと透けて見える。


 綾瀬には、一目でそれがこの世のものではないことが知れた。


 不思議と恐怖は無い。


 女性はこちらをじっと見つめたまま、すいと左手を上げた。


 つまり、向かい合っている綾瀬にとっての、右。


 何かを伝えようと言うのか。あの方向には、何がある。


<結界>


 その言葉が、綾瀬の頭に飛び込んでくる。


 聞きなれぬ単語。いや、確かあの方角には、浅草寺があったはず。


「浅草寺、か?」


 視線を戻す。


 女は、もうそこにはいなかった。


 ざわりと道に人気が戻る。その雑踏に紛れつつ、最後に一度、鈴が鳴った。

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