第四章第一節<調伏>
警視庁にて、川路から例の書状を受け取ってから、既に三ヶ月が過ぎようとしているころ。
沙嶺と宝慈は、再び同じ部屋を訪れていた。そして目の前には、幾分生気を取り戻しているかに見える川路が座っている。しかし、いまだに眉間に深く刻まれた苦渋の皺は取れぬ。その顔は、明らかに大久保殺害後の過密な業務に忙殺されかけている様子をありありと映し出していた。
「出たか」
「はい」
沙嶺は懐から、折り畳まれた書状を取り出すと川路の前に置いた。
「ご安心なく。既にその手紙には、何の咒力もありません」
納得しかねているといった面持ちで、川路はそれを取り上げ、開く。一点に黒く炭化しかけ、周囲に茶色い焦げ跡を残していることを除き、書状は以前のままであった。
何か劇的な変化を期待していたのではない。しかし、このまま、はいそうですかと受け取るわけにも行かない。
「結局、あれは何だったのだ」
「呪術であることには変わりありません」
文明開化の時代、新しい警察というシステムを預かる身でありながら、こうして密教僧と部屋で言葉を交わしている、そんな自分をいまだに信じることが出来ぬ。
それはすなわち、川路が呪術などというものの存在を鵜呑みにしていないことをも意味している。
「ただ、これは我が日本の呪術ではない……」
「どういうことだ?」
「恐らくは西洋の……
「伴天連?」
突拍子もなく飛び出て来た単語に、川路は顔を歪めた。
「詳しい事は分かりません、しかしその手紙に幻惑を催させる呪術が込められていたことだけは、確実です……たぶん相手は、あわよくば相手を呪い殺そうとまで考えていたのでしょうね」
呪いで人が殺せるものか。そんな非現実的なものを否定する声をかろうじて堪え、川路は唇を開いた。
「お前達、自分が何を言っているかわかっているのか」
「はい」
沙嶺は大きく頷いた。
「西郷様から大久保様へ。政府の中でも中心の人物同士の手紙であることを考えるならば、これはれっきとした日本政府への妨害工作です」
近年になって、怒涛の如くに西洋文化が日本の中に入ってきている。その一つ一つが日本人にはまるで夢の世界のようなものであり、人々はこぞって西洋文化を自分たちの生活の中に取り込もうとしている。往来を見れば、着物の下にシャツなどを重ね着している者が増えていることなどは、その典型であろう。
「西南戦争に、外国が関与していることというのは、ありますか」
言われ、川路は一つのことに思い当った。
生前の大久保が西郷討伐の命を下すにあたり、武器弾薬の調達先に一つの外国の会社を用いていた。
ミラーカ商会。生活雑貨から武器兵装に至るまで、幅の広い販売を一手に取り扱っている世界有数の商社の名だ。無論、一般人には銃や弾薬などを買う機会は無い。そうした事を考えれば、あの商社は民間から国家レベルにまで、縦横にその触手を伸ばしているであろうことが考えられる。
しかし、商社という近代的な経済システムと、この者たちの指摘する呪術とが結びつかぬ。
「……ない」
「そうですか……」
沙嶺は深く溜息をひとつついた。
「さしあたり、その手紙にはもう害はありません。ご安心ください」
退室した二人は、ゆっくりと廊下を歩きながら階段に向かっていた。見慣れぬ訪問者に擦れ違うものは皆、奇異なものを見る視線を向けてきているが、そんな態度は既に二人には当たり前になっていた。
宝慈の結界で霊的に封印し、沙嶺の調伏咒にて明王を降臨、霊障を消失。その途端に二人の目の前で、手紙に記された奇妙な印形は火を吹きあげ、そして焼き尽くされた。あの印形がすなわち、他の世界との扉の役割を果たしていたのだ。
「宝慈、どう思う」
「何か隠してるってことかあ?」
その答えに、沙嶺は思わず微笑を浮かべた。一見すれば飄々としていながら、宝慈もまた違和感を感じ取っていたのだ。その観察眼と洞察力は、頼もしくさえある。
「あの紋章は人が書いたものじゃない……恐らく手紙に、何か護法のようなものが放たれたんだろうな」
「厄介だなあ」
このところの、急速な日本の改革を見れば阿呆でも予測がつく。
陸軍と海軍ですらそれぞれ、
無差別に吸収している中にもし、悪意に満ちたものが入り込んでいるとしたら。
日本の占領か、それとも何か別の意図があるのかは分からない。しかし日本の政府に対し、外国の呪術が行われたという事実は変わらない。
それと時を同じくするかのように、廃仏毀釈令が発令されているではないか。明璽政府は、天皇による国家統治の正当性を記紀神話に求め、王政復古を目的として立ち上がった。
神武天皇より連綿と受け継がれて来た、天皇という人格の神霊性を宗教レベルによって知らしめるということはすなわち、人々の無意識の思想信仰の力を集中させることに他ならぬ。それは天皇を政治中枢として据えるという意味もあろうが、沙嶺や宝慈にしてみればそこには霊的な要因をも見ることができる。
人を神に。
西洋の唯一神信仰では絶対に考えられないものであり、ある意味それは西洋においては外法とされる。
全ての事象物象には神が内在しているのであれば、人と神とを隔てる境界線は絶対不可侵なものではなくなる。現人神という名の示す通り、日本国民全ての信仰心を天皇一人に集中させれば、そこには否応無く霊的な影響力が生まれ出づる。
それが、たとえ意図しないものであったとしても。
階段を降り、正面玄関から往来へ出る緩やかな段差が陽光に照らされている。
「ここにはまた来ることになりそうだなあ」
「そうだね」
沙嶺は顔を上げ、自分たちを送迎する馬車を見た。
「川路が何かを隠している以上、また似たことが起きないとは限らないし」
燦々と降り注ぐ光の中に沙嶺の足がさしかかったとき。
彼の脇に、こつんと何か固いものが当たった。
「帝都の警視庁ン中じゃあ、川路サンの噂話はしないほうがいいぜぇ?」
はっとなって振り向く。
宝慈もまた、沙嶺の傍らにいる男を見ていた。
紺色の着流しに腰には刀。廃刀令が出されてもなお、このような出で立ちの男がいるというのは如何なることか。
「俺は
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