第三章第三節<天使霊術>
ルスティアラの前に現れたのは、夜闇をさらに凝らせたかの如き真闇の間であった。
簡単な囲いがしてあるほかは、その場所には何等外部と遮断するものはない。さして広くは無い中庭のような場所であり、周囲にはずっと上まで官庁の窓が並んで見える。
溜息をひとつ吐いてから、ルスティアラは正面に位置する石碑に向き直った。
小高い丘のようになった上に聳えているその石碑には、ルスティアラでも読めぬ文字が刻まれてあった。それは密教界における神秘性を体現する梵字と言う特殊な表記なのだが、そこまでの知識はルスティアラは持たぬ。
「タイラ=ノ=マサカド……武蔵野の地の
ルスティアラは石碑から視線を離さずに、ドレスの裾を大きく捲った。
闇の中に、ほのかな光を受けて白い太腿が露になり、ルスティアラはそこに巻きつけてある革製のベルトのホルスターから短剣を抜き放った。それから柄を握ったまま、額、胸、右肩、左肩と指を触れ、そののちに胸の前で両手で包み込むように短剣を掲げ、そして頭上に突き上げた。
「ア・テェ・マルクゥト・ヴェ・ゲー・ブラァ・ヴェ・ゲー・ドゥラー・レ・オーラァム・エイメン」
『汝が上に、神の王国と御力とに栄えあれ、永遠にかくあれかし』、という意味のヘブライ語の聖句を唱える。
変化は無い。いや、まだ、というべきか。
ルスティアラの特殊な霊的視覚には、既に五芒星儀に呼応して石碑からゆらりと立ち上る何かを見ていた。
「私は<
ルスティアラは短剣をホルスターに戻すと、両手を掌を上に向けた恰好のまま合わせ、そして掌を窪ませた。
視覚化により、手の上に浮遊する銀の杯が出現した。燐光を放つ神秘的な液体を湛えたそれを突き出すように、ルスティアラは石碑に挑みかかるような視線を向ける。
そして大きく息を吸い込んだかと思うと、その瞳が女性とは思えぬまでの強烈な意志を宿した。
「
エノクと呼ばれる神霊言語を、独特の詠唱方法によって震動させるヴァイヴレーションが空間を満たす。
轟、という唸りがルスティアラを捕らえたのはそのときであった。
眼前の石碑が、赤熱するほどの炎を宿している。間近におらずともにじっとりと肌が汗ばむほどのその熱気に、ルスティアラの幻視杯の中の
無論、現実事象ではない。将門公それ自体の霊格が、何等魔術的儀式を必要とせずに呼び起こし、喚起せしめた調伏降魔の炎であった。
じりじりと身を焼くそれに顔をしかめつつ、それでもなおルスティアラは炙られ揺らぎ消えんとする意志を奮い立たせた。
「我を守護せよ天空の長老、SAIINOVよ与えよ
次々とエノク文字によって記された、各惑星霊の長老の神名を震動させることで己の霊的加護を高めていく。しかしルスティアラが三つ目の神霊名までを唱え終わったとき、炎の攻撃が彼女が纏う三重の
魂魄を直接に灼熱の指で締め上げられ、ルスティアラがたまらずに悲鳴を漏らす。幻視を高める為に閉じていた目を開くと、石碑の上に炎に包まれた長い髪の男の怒りの形相がはっきりと見える。男は何かを喋っているようであったが、唇が開くたびにそこから吐き出される炎は周囲を焦がす熱気をさらに増大させていく。
いまやルスティアラの意志は揺らぎ、掲げ持っていた銀の杯を再構築することも出来ぬ。確かにカバラ十字の聖別儀式を執り行っていたにもかかわらず、首塚の周囲の霊干渉の排除は出来なかったというわけか。
額に伝う汗を拭うことも出来ず、ルスティアラの足が地を離れる。喉元を締め上げる指を引き剥がすことも出来ず、意識が遠のいていく。
そのとき、ルスティアラは確かに見た。
男の首から下には何も無く、顎の下からは今なおねっとりとした雫が滴っていることを。
信じられない。これだけの力を持つ霊存在が、力に圧倒されることなく今なお存在し続けているなんて。
最初にここに近づいたときには、それほどの霊気は感じられなかった。だがいまや、バスティーユ牢獄跡の霊濃度を数倍したよりも凄まじいものがここにはある。
これが、かつては人間だった者一人の感情だけによる力場なのか。
もう、呪術を使うだけの精神力も無い。薄れ行く意識の中で、ルスティアラが閉じかかる瞳を押し上げようとした、刹那。
不意に躰を縛るものがなくなり、ルスティアラは地に落下した。
喉元を抑えつつ、咳き込みながらも上体を起こすが、周囲には炎の残滓すら感じられぬ。それどころか、先ほどまでこの場を支配していた男の霊気すら、残ってはいないのだ。
どうして、あのまま自分を咒殺しなかったのか。朦朧とする意識のまま、湿った土に手をつくルスティアラの視界の中で何かが動いた。
それが闇の中に立つ、一人の男であることに気づくまでに数秒を要した。
しかし、先刻まで、ここにいたのは自分だけのはず。首塚に至る道は背後にある門だけであり、その向こうには柿崎らがいるはずだ。
だが目の前の男は痩身であり、身の丈はとても日本人とは思えぬほどに高い。
誰何の声を発するよりも前に、男が振り向いた。ばさりと音がして、男が身につけているカーキ色の外套が翻る。
「碧眼を持つ徒、ここはお前たちが来るべき地ではない」
男が着ている服は、間違いなく日本陸軍のものであった。見まちがえようにも、つい先刻まで柿崎らが着ていたものと同じものである。
ただ違うのは、左胸の場所に五芒星が縫いとめられていることであった。
「あなたは……何者」
自分と同じ術師のようでもあり、また日本人のようでもある。幾つもの気配が渾然一体となっているかのように、ルスティアラの感覚をもってしてもこの男の本質の一片たりとも見抜くことはできぬ。
「日本帝国陸軍陰陽将校、
低い声で男はそう応える。
「ここでお前の身に起きたことは漏らさずに主に伝えろ。それでもなお、帰国せぬというのであれば……二度目は無いぞ」
ルスティアラが詰問の声を上げようとしたとき、妙見の黒い手袋に包まれた右手がぐっと突き出される。
「
その一言を聞くよりも早く、ルスティアラはその場に昏倒した。
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