第三章第一節<首塚>

 喉元に押し込んだナプキンを揺らしながら、男は一心不乱に慣れない洋食器と格闘していた。


 大きな皿の上に乗っているのは、赤ワインをベースにしたソースをふんだんに使った鴨料理であった。こんがりと照り焼きにされた皮が香ばしく、食感を楽しませてくれる一流の西洋料理も、この男にかかっては見る影すらなかった。


 皿の外のテーブルクロスにまで点々と焦げ茶色のソースの染みを飛ばしながら、それでもなんとかフォークで突き刺そうとした肉片は、つるりと滑って男の膝の上に敷かれた「もう一枚の」ナプキンの上に落ちた。


 男は文字通りにフォークとナイフを放り投げると、やおらそれを指で掴み、口の中へと押し込んだ。


「いや全く、これは失礼」


 男は下卑た笑いを浮かべながら、指を汚しているソースをぺちゃぺちゃと音を立てながら舐め取った。これまで壊れた楽器のように派手な音を立てていたフォークとナイフとを取り上げ、愛想笑いのようなものを浮かべ、突き出た腹を揺らしながら笑って見せた。


 男の正面には、一緒に食事をしていること自体が、何かの間違いなのではないかと思えるほどに秀麗な女性が腰を下ろしていた。


 肩の上で豊かなブロンドが渦を巻き、胸元を大きく開けたデザインのイブニングドレスを纏っているその女性は、明らかに不快さを催させる男の食事を目の当たりにしても、眉一つ動かさないままに微笑を湛えていた。


 そうしておいてから、ふっと表情を曇らせ、その長い睫毛を伏せてみせる。


「ごめんなさい、日本の方に慣れない食事をさせてしまいましたわね」


 女性の口からは、しかし淀みも歪みもまったくない、美しい日本語が発せられていた。


「いやいや、そのようなことをおっしゃいますな」


 ナイフを持ったままの「左手」を派手に振り、男はぐっと身を乗り出してみせる。


「私は昨年まで、仏蘭西フランス巴里パリに行っておりましてな、やっと向こうの作法が身についたかつかないかというときに、帰国せよとの命令がありまして、いやもう本当に泣く泣く戻ってまいりまして」


「まあ、そうでしたの」


 女性―ルスティアラ・ヴァーヴェロイは驚いてみせる。


「ですが、もしよろしければ、フォークの背に乗せて食べるのはやめたほうがよろしいのではなくて? 差し出がましいとは存じますが、私の故郷はそうした作法ですので、合わせていただけると嬉しいのですが」


 男ははっとした様子で周りのテーブルをきょろきょろと見回してみる。


 店内のテーブルについている客がみな、自分のことを何か珍しい生物のように見ていることに気づくと、男は潰れた熟れ柿のような顔色をさせながら持ち変える。


「そ、そうだったのですか、いや、これは失礼」


 男は胸元のナプキンで汗を拭いながら、落ち着かない視線を料理とルスティアラとに交互に向ける。


「それはそうと……柿崎様、でよろしかったですか?」


「いかにも、私が柿崎平八郎でございます……しかし、なんとまあ、日本語がお上手でございますな」


「まあ、それは嬉しいわ」


 鈴のような声で笑ってから、ルスティアラは手を止めた。


「柿崎様は、日本をどのような国にしていこうと、お考えですか?」


 唐突にそのような質問をされ、柿崎は狼狽を隠せない。


「そう、ですな……ひとまずは、世界にこの国ありと言われるほどの……いずれは一等国へと、その」


「そうですね」


 ルスティアラは瞳を閉じ、物思いに耽るように上を向く。


「私、日本に来て感じましたの。なんと美しい国なんでしょう、って。こんなに美しい国なら、ずっと長い間、港を閉ざしていたくなる気持ちも分からなくは無いですわ」


「いや、まあ、その、気に入っていただけて何よりだ」


 誉められたのは自分ではないはずなのに、柿崎は顔を紅潮させて満面の笑みを浮かべる。


「それでですね、柿崎様」


 ルスティアラは、真摯な眼差しで柿崎の瞳を貫く。


「私、この帝都東享を巴里のような美しい都だったら、どんなに心躍ることでしょうって思っていたのです。あの見事な調和……仏蘭西に滞在されていた柿崎様なら、お分かりくださいますわね」


 無論、柿崎が巴里にいたという話など真っ赤な嘘である。


「まあ、その、そうですな」


「それで、私、東享をずっと拝見していたんですが……都の中央にある、コウジョー?あれは……一体なんですの?」


「あ、あれは、現人神たる天皇陛下の御所なのですよ。皇城こうじょうと申しまして、それはそれはやんごとなき方のおわすところでございまして……」


「そうでしたの」


 微笑を絶やさずにいたルスティアラの顔に、何か強い意思の光が宿る。


「霞ヶ関というところに、日本の政治を支える機関を集めまして、それからその……宮城の周りに大通りを建設するのです。凱旋門を中心にした巴里のように、放射状に街を走るメインストリヰト……きっと、飛行船から見たら美しい街並みになると思いますわ」


 ルスティアラの笑いに、柿崎も志望だけを蓄えている腹を揺すって倣った。


「いやいや、これはお美しい女性ならではのご判断ですな。私のような生粋の軍人には、とても考えがつきませんでした」


 ひとしきり笑ってから、柿崎の顔が急に曇った。


「いやしかし、その素晴らしい提案を実現するには、一つだけ、こう……問題がございまして」


「問題?」


 ルスティアラは片手を挙げて給仕を呼ぶと、ワインを注文した。


「まったくもって、本当に馬鹿げた話なのですが……その、大蔵省の敷地の中に、ですね」


「敷地の中に?」


 柿崎の言葉を繰り返すようにルスティアラが重ねて問う。柿崎の言葉自体が不明瞭になり、また声量も下がってきたため、ルスティアラは体を前に寄せるようにしてじっと柿崎の顔を見ていた。大きく胸元の開いたドレスのため、柿崎の視線があちこちに泳ぎ、また脂汗が額から滲んでくる。


「首塚と呼ばれる、石碑がございまして……まあ、その、文明開化の世の中でこのような話など笑い話にもなりませんが」


 ルスティアラは柿崎の瞳から刹那も視線を外さずに、その肉厚の唇を官能的に動かして囁く。


「話してくださいませんか、柿崎様?」


「あ、あの、その、ですな……首塚というものが、新しい官庁街には似つかわしくないということで、再三に渡って移転工事をしているのですが……その度に、原因不明の障碍しょうがいがございまして……関係者の中には、祟りなどと馬鹿げた言葉を吐くものが出る始末で」


 言葉を選びつつ、たどたどしく説明する柿崎は次第に言葉を濁していく。これが日本人同士の間であったとしたらよかったのだが、全く日本のことを知らぬであろう異国の女性に対して言葉を重ねているうちに、自分がひどく滑稽で臆病な性質であると弁解しているような気分になってきたのである。


「それは、今もそちらにございますの?」


「ええ、ですが……いえ、ですから、その、官庁の移転と申しましても、その塚が……」


「面白そうですわね」


 ルスティアラはすっくと立ち上がった。柿崎は驚きに目を丸くしたままルスティアラを見上げる。今の自分の説明は、ルスティアラの好奇心を駆り立てるに十分であったのだろうか。いやそれよりも、自分が矮小で小心者の男であると思われていないのであろうか。


 彼女の動きを追うように、美しいドレープがさらりと煌きながら流れ落ちる。


「その塚というもの……とっても興味がありますの。是非、見せてくださらなくて?」

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