間章Ⅱ<印形>

 沙嶺と宝慈は、そののち東享市湯島にある、霊雲寺に身を寄せることとなる。


 廃仏毀釈令によって、市内の寺社仏閣への風当たりが強い中、二人が受け入れられた事は奇跡にも等しかった。しかしまた、それは警視庁大警視たる川路自身の、超法規的処置を匂わせるものがあった。


 どんなに口では否定していても、あの幻は沙嶺や宝慈であってすら、命を奪われる危険があった。その証拠に、沙嶺の頬には今なお、一筋の裂傷が刻まれていた。幻術とはいえ、あの豹の爪が残した傷であった。実体ではないと見抜いていたにもかかわらず、である。


 もしも川路にあの豹が襲い掛かっていたとすれば、恐らくは即死は間違いない。喉笛を噛み切られていた御者も、恐らくは無事ではすまないだろう。




 それから四日後。


 二人は再び、川路の元へ呼び出しを受けた。政府ご用達の馬車での迎えという異例の待遇に、霊雲寺側も目を丸くしていたという。


 そんなことも知らず、警視庁へと出向いた二人の前に、一通の書状が出された。それは、あの時川路が握り締めていたものであった。


「ほどなく参りますので、お待ちください」


 応接室に残された二人は、机の上にあるその手紙を引き寄せてみた。


 文面はあまり問題ではなかった。沙嶺と宝慈の視線は、ただ一箇所に吸い込まれるように集中した。


 紙片の左隅に、奇妙な図画が書かれていた。何かの拍子に記されたものとはとても思えないもの。鳥が翼を広げているような恰好のそれから、二人は強い思念を感じた。


 秘められているものではない。まるで部屋の中で濛々と香を焚き染め、窓を一つだけ開け放っているように、手紙からは思念の流れが感じられる。


 これがあの幻を作り出したものであることには間違いない。


「結界を張ろうかあ」


 懐から、宝慈は法具を取り出した。三鈷杵さんこしょと呼ばれる、中央に握りの部分があり、左右にそれぞれ三本の爪が弧を描いて一点で交わった形状をしているものだ。


 金剛杵こんごうしょの中では最も一般的なものであり、その三本の爪、いわゆる三鈷とは仏、蓮華、金剛の三部を現し、それ自体が宇宙観想そのものを表現するという。


 宝慈は法術の中でも、特に結界に関係する術を得意としている。それ故、あの幻術空間の扉を破った際の九字も宝慈によるものであった。金剛網と呼ばれる結護法を応用した結界術により、手紙の周囲に仏尊の網を結び終わったのと同時に、部屋の戸が開いた。


 現れたのは、数日前に馬車の中にいたのと同じ男である。川路利明、しかし今の彼の顔には、はっきりと憔悴の色が見える。


「やはり、あの幻の原因はこの手紙のようですね」


「……お前達にはまだ話していなかったが」


 川路は戸を閉めると座るように促し、自分も正面の革張りのソファに身を沈めた。


「鹿児島で士族の反乱があったのは知っているな」


「……へえ」


 間を置いて、宝慈が返答をする。ここまでの道すがら、そうした噂話は嫌でも耳に入ってくる。


「その士族の頭領……西郷から、大久保内務卿へと当てられた手紙なのだ」


 政府要人の手紙と、幻術を催させる咒気。その両者は、二人の頭の中出は容易には結びつかないもの同士であった。


「私自身、そうしたことは信じる性質ではないが……実際にお前達は、私のことを救ってくれたこともある」


 川路は手紙を、すっと二人に押しやった。


「これも縁というものだろう……他言無用であるという条件の上、この手紙の秘密を探ってもらえんか」




 文明開化の帝都にて、あのような幻術に遭遇するなど、二人には想像さえできなかったことであった。大僧正阿闍梨は、もしやこのことを見越して、自分たちを向かわせたのだろうか。


 首肯し、手紙を携え、二人は馬車に乗り込んで寺へと戻った。


 それから二月後の、五月十四日。


 大久保内務卿、紀尾井坂にて兇刃に倒れるという内容の号外が、再び帝都を騒がせていた。

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