第二章第七節<幻惑>
投じられた小石は緩やかな放物線を描き、やがて眼下の水面に微かな波紋を広げていった。
行き違う馬車は蹄の音を高らかに響かせ、和装洋装の入り混じった人の流れは途切れる事無く、しかし一点に振り向きながら交錯していく。
東享市桜田門において、沙嶺と宝慈の山伏の姿はひどく珍妙に思えた。
山を降りたときはまだよかった。帝都へ近づいていくに連れ、次第に宝慈はあまりに様変わりした都に驚きを隠せなかった。盲目の沙嶺であっても、明らかに周囲の雰囲気の違いというものを悟っているらしい。
命を受けてから五日。山駆けによって鍛えられた体力と脚力の御蔭で、二人はさしたる苦労も無く帝都に辿り着くことが出来た。路銀の類はなかったが、先々での托鉢と喜捨に恵まれたこともあり、旅程は問題なく完了したように見えていた。
しかし、これからどうすればいいのか。まだ帝都で夜を明かしてはいないが、これまでに二度、憲兵から呼び止められている。
そのたびに宝慈が事情を説明したことで逮捕されることは無かったが、いずれも胡散臭そうな視線を残して二人の前から去っていく。その現実は、二人に自分たちの存在が異質なのだと言う事を思い知らせるには充分であった。
「なあ、宝慈……一度、ここから離れようか」
「んん?」
首だけを捻って、宝慈は振り向く。
「東享に行けと言われたって、何もこんな中心部にいることはない……まずは、どこかの寺に身を寄せて」
「そうだなあ」
ぼりぼりと首を掻き、宝慈はひとつ大欠伸をした。
手にした錫でとんと道を突いてみせると、宝慈もまた自分の錫を手にする。沙嶺は顔を上げ、周囲を見回すように顔を上げた。
「すまないが、誰かに聞いてもらえないか」
「よしきた」
宝慈が頷いたときであった。
道の彼方から、がらがらと車輪の鳴る音が聞こえてくる。見れば一台の黒馬車がかなりの速さで走っているではないか。二人にだけでなく、その姿は東享においても珍しいのか異様なのか、道行く人々も皆振り向いている。二頭立ての馬車は見る間に大きくなり、小石を弾き飛ばしながら二人の前を通り過ぎていく。
その瞬間、沙嶺は何かを感じ取った。
傍らにいるであろう宝慈の肩に手を伸ばし、沙嶺は振り返った。本来なら、徐々にではあるが遠ざかりながら小さくなっていく、馬車の疾走する音が聞こえるはずなのに。
しかし、これはどうしたことだ。
擦れ違った瞬間に、馬車の音はその残滓に至るまで、完璧なまでに消滅してしまっている。
「宝慈」
「あの馬車、だなあ」
話し方は相変わらずだが、宝慈もその異様さに気づいているらしい。
「馬車は?」
「見えん……だけど、みんな消えたことに気づいてないみたいだなあ」
だが、沙嶺には分かっていた。馬車はいる。今もなお、凄まじい速度でひた走っている。しかし、それは沙嶺の観想視野の中にのみ存在するものなのだ。
宝慈も、そうした特殊な感覚をもって馬車を知覚している。そしてそれは同時に、あの馬車が普通のものではないことの証であった。
沙嶺も宝慈も、そうした特殊感覚は山岳での修行の上に身に付けたものなのである。そのような、常人の持たぬ感覚によってしか看破することのできないような存在であるということは。
擦れ違ってから数刻、二人は同時に弾かれたように走り出した。
目標は消えた馬車。その向こうで、何が起きているのかここからは知る由が無い。ならば。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前ッ!」
宝慈の手刀が縦横に閃き、九本の線による碁盤の目を描く。
九字が切られた瞬間、二人の眼前に紅蓮の色彩が刹那、舞い踊った。それは二人を包むように広がり、そして背後で再び収斂する。
宝慈によって一時的にでも解かれた結界は、再度何者かによって修復されてしまっていた。
だがそれは、宝慈らにとっても有難い現象であった。
何故なら、眼前に広がっている光景は、まさに異界であったのだから。
皇居の外堀周辺の街並みは変わってはいない。だが人々の姿は消え、天空は赤と黒に染め上げられ、路地のそこそこでは黒い塊や不吉な影が飛び回っている。
堀の下からはけたたましい笑い声と、夥しい何かの存在を示す水音が絶え間なく聞こえてきている。
そして、目の前に馬車はいた。
しかし、それは停止してしまってはいたが。見事な毛並みの馬は、一頭は横倒しになっており、その腹は破れて道に臓物を四散させ、それらに群がる悪鬼どもがはっきりと見える。
もう一頭の姿は見えない。
そして黒塗りの馬車の天井に、二人は信じられぬものを見た。
それは巨大な豹であった。哀れな御者をその顎に捕らえ、最早ぐったりした躰を貪っていた豹は、食事を止めるとくるりとこちらを向く。
戦慄に似た衝撃が、二人の精神に揺さぶりをかける。
だが、それから一瞬早く意識を回復させたのは沙嶺が先であった。
これは、幻想だ。ここまでの異界を、単に結界一枚を隔てただけのところで展開することなど不可能だろう。
「
沙嶺の口から、虚空蔵菩薩の真言が流れるように紡がれていく。仏智悟入の験力のある真言によって、何者かの幻術空間を破ろうとしているのだ。
だんっと沙嶺の足が踏み鳴らされるのと同時に、豹がこちらに向き直り、威嚇の声を上げる。
追唱するように宝慈も同じ真言を紡ぐ。まるで耳障りなそれを妨害しようとしているかのように、御者の躰を頭上高く放り投げると、豹は二人目掛けてそのしなやかな前肢を振り上げた。
「
爪が空を裂く音と、真言とが共鳴する。
空間が綻びたのか、それとも術師が強制力を放棄したのか。
次の瞬間には、周囲の光景は以前のそれに戻っていた。
汗をぐっしょりと掻いた馬は足を止め、御者は虚ろな視線を前方に投げかけている。宝慈は足早に近寄ると、馬車の扉をこんこんと叩いた。顔をのぞかせたのは、顔面蒼白になった男であった。
「今のは……お前たちは誰だ?」
男の声色や口調から、宝慈は馬車の中には幻術を操る術師がいないことを確かめる。
ではどうしてこの馬車だけが、と思い当った瞬間、宝慈はその男が手に紙を持っていることに気づいた。
「失礼、その紙は?」
「お前達に見せられるようなものではない」
男は宝慈の依頼を無碍に断った。だが、男は続く言葉に大きく目を見開くことになる。
「今の幻は貴方もご覧になっているはず……もし幻があと少しでも強ければ、貴方も死んでいたのですよ?」
言葉は沙嶺のものであった。山伏の恰好をした男二人を目の当たりにして、男は一瞬、言葉に詰まる。
「貴方の持っているものから、強い力を感じます……それが詐欺などではないことは、今の貴方が一番よく分かっているはずですが」
男―川路利良は、手に持っていた西郷から大久保利通に当てた書簡を握り締めたまま、ゆっくりと二人の顔を見比べていた。
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