第二章第一節<東獅子>

 怒号と共に、後手に縛られたままの男が、積み上げてあった桶に頭から突っ込むように吹き飛んだ。


 うめき声と共に、尻だけを突き出すような恰好で動かなくなる姿に、並んで縛られていたものたちも言葉を失う。縄を掛けられた者だけでも十余名、小さな小屋の土間には血塗れで倒れているものたちを含めるとかなりの人数に及ぶ。


 ある程度の広さを持つ小屋の中では、むっとするほどの男の汗と血の匂いに混じり、苦悶のうめきが上がっている。


 その一部始終を、小屋の奥でじっと胡座をかいたまま見ていた男が、すっくと立ち上がった。


「そのへんにしとけ」


 男の低い声に、それまで虐待の限りを尽くしていた若者達は、相手を責め嬲る手を止めた。


「もうそろそろ、話した方がいいと思うんだがな」


 木刀を肩に乗せ、男はずいと無傷のままで縛られている一人に近づいた。


 縛られている男は、やや顔から血の気が失せているものの、その眼光はまだ衰えを知らぬようである。


 その表情が気に入らなかったのか、男はぎりと奥歯を軋らせると肩の木刀を振り下ろす。切っ先は、見事に縛られた男の眉間数センチのところで止められていた。


「てめえのことはもう、大体分かってんだからなぁ……いい加減腹ぁくくっとけ、元薩摩藩郷士、中原」


 名を呼ばれ、身を固くする中原とは対照的に、周囲にいた若者達は耳を疑った。


 何故なら、彼らは薩摩藩の私学校の生徒だったからである。


 征韓論で大久保利通と意見を違え、郷里の薩摩藩へと戻った西郷隆盛は、砲隊、銃隊、章典学校や吉野開墾社からなる私学校を設立した。政府の再改革、そして対露西亜政策までを視界に入れた目的からなる教育機関であったが、昨年から続く各地での不平士族の反乱の煽りを受け、ぴりぴりとした空気が漂い始めていたのだ。


 再三にわたり、西郷と私学校に対して挙兵の依頼があるも、それらの悉くを西郷は退けていた。血の気の多い学生等の間には、それだけでも不発弾のような欲求不満がじりじりと鬱積しつつあった。


 そんな中、薩摩藩に奇妙な一団が足を踏み入れることとなった。即座に反応した私学校生徒らによって彼等は捕らえられ、拘束を受けることとなったのだ。


「それは本当ですか」


「おお」


 木刀をずいと構え、幹部と呼ばれた男―桐野利明は中原に迫る。


「言え。一度郷里を発ち、東享に向かったお前が、何の訳があって戻って来た」


 頬にひたと木刀が当てられたときには、さすがの中原にも緊張が走る。この男ならば、単なる脅しとは考えられぬ。実剱でないのは、殺害が目的ではないのだろう。


 しかし木刀とはいえ殴打され続ければ命の危険もある。


「……ふむ」


 無言を中原の抵抗と理解した桐野は、一つ息を吐き出すと、やおら振り上げた木刀を中原の頬に叩きつけた。


 容赦のかけらもないその一撃は中原の頬骨を砕き、口の中に鮮血と共に数本の歯が散らばるほどであった。


 横に倒れる中原に追い討ちを掛けるように、腹に爪先をめり込ませる。躰が二つに折れ、口から濃い色をした血が糸を引くように土間に散った。顔面には酷い痣が広がっており、中央では皮膚が裂けてそこから血が流れている。


「もう一度聞くぞ。目的はなんだ」


 腹筋を破るほどの衝撃に、しばらく躰を痙攣させるようにして咳き込んでいた中原は、やがて蚊の泣くような声で何かを口にした。


「聞いてやれ」


 桐野の合図で、若者の一人が屈みこんで中原の顔に耳を近づける。苦痛のうめきの合間に、それでも何とか言葉を拾い集めた若者は、桐野を見上げて伝える。


「電報が入っているそうです」


「出せ」


 若者は中原の懐に手を差し入れると、すぐに折り畳まれた紙を取り出した。受け取った桐野はそれを開くが、その途端に形相が一変した。


「誰の命令だ」


「警視庁、長官……川路利良」


 言葉にこそ表れてはいなかったが、桐野の感情が凄まじい速度で膨れ上がっていくのを、そこにいた誰もが感じ取っていた。


 それは最早、当人であっても制御しきれないほどに激しいものなのだろう。木刀を握り締める腕が、わなわなと震えているのがはっきりと見て取れた。


「待ってくれ、違う……お前は勘違いを」


 すがるように言葉を必至に紡ぐ中原に、桐野は木刀の一撃を更に浴びせる。今度は顔を真一文字に打ち、鼻梁を砕かれた中原が絶叫と鮮血をしぶかせながら土間を転げまわる。


「どいつもこいつも、裏切りやがって……!」


「桐野さん」


 握り締められた電報の紙を若者に渡すと、桐野はくるりと背を向けた。


「急用が出来た。あとはお前達に任せる」


 小屋から出ていく桐野を呆然として見送っていた若者は、戸の閉まる音ではっと我に返り、手にした紙に目を落とした。


 そこにはたった一行だけ、こう記されていたのだ。




 <ボウズ ヲ シサツ セヨ>

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