間章Ⅰ<啓示>

 傍らを駆け抜ける微風に潮の香りを感じ取り、人の流れの中で足をふと止める男がいた。


 和洋様々な服装の行き交う中で、男だけはきっちりとダブルのスーツを着こなしている。その上から羽織ったコートは脛の辺りまである丈の長いもので、およそ日本人らしからぬ服装であった。


 マフラーに半ば埋もれるような形で白い息を吐く男は、やはり西洋人であった。


 潮の香りも、この街―横浜が港町であることを考えれば当然のことである。


 一八五九年の七月一日、英米仏蘭露五カ国に対して開港してから、この街の変貌はまるで白昼夢を見るが如きであった。


 道行く中にも異邦人が混じり始め、次第にそれが人々に受け入れられていく。江戸の都の時代には考えられなかったような洋館が次々と建築され、それにならって日本人もこぞって西洋文化を堪能する。その姿はまるで、黒船来航に端を発した祭りが今もなお、街全体を包み込んだまま覚めやらぬ様でもあった。


 男は香油で美しい金髪を後ろへ撫でつけたヘアースタイルをしていた。彫りは深く、すっきりと通った鼻梁と、深い眼窩の奥の焦茶色の瞳、そして鼻の下にたくわえた髭などは、擦れ違う婦人に溜息をつかせるほどである。白いスーツに、グレーのストライプの入ったシャツを着たその男は、しばらくそのままの姿勢で頭をめぐらせていたかと思うと、すっと流れから外れた。


 男は大通りから脇にそれ、そして視線がそのあとを追うよりも早く、しかし決して焦らない歩調で路地の間に姿を消した。


 微かにコートの裾を翻しただけで、男は細く汚い路地を足早に通り過ぎていく。


 足下には、既に元が何であったのかすら分からぬほどに汚れ、壊れた雑多な品が積み重なっている。それらに足を取られぬようにしながら、男は磨き上げられた革靴を汚さぬように道を進む。


 路地はすぐに折れ曲がり、そして程無く二つ目の角を迎える。


 そのとき、男はちょうど角を曲がりきったところに木製の扉があるのを見つけていた。いい加減に薄汚れた裏路地を進むことに辟易していた男は、素早く扉に手を当て、押した。


 しかし、扉はかたんと僅かに動いただけでびくともしない。


 男は再度同じ事をし、そしてしばし思い悩んだ挙句に、扉の正しい開け方を思いついた。


『引き戸、か』


 横にずらすと、扉は難なく開いた。


 本来ならば、簡単な階段か足場でも設けるはずなのであろうが、通るものと言えば鼠くらいしかいない、裏路地にはそのような気の利いたものは無い。少し高い段差を踏み越え、男は扉の中へと入った。


 室内というのか、屋内というのか。


 質素というよりは、見るからに人が生活した雰囲気が欠落したような空間であった。


 床板の上には、顔を近づけずとも分かるほどに、色がくすむほどの埃が降り積もっている。男の革靴が板を踏みしめると、床全体がみしりと音を立てた。


 男は一端足を止め、そして床が抜けないことを確かめると、ずいと躰を引き上げた。


 二階に続く階段が目の前にあるが、それは半ばほどで崩れてしまっている。そして目の前には、小さな木製のテーブルが一つ。


 その上に目を引くものを見つけ、男は近寄ってみた。


 白い封筒が、そこには置かれていた。見たところ、まだ新しい。しかも表には、明らかに筆ペンによる筆記が見られる。


 <Alice in Wonderland>と綴られたその書体は、同じ西洋人の彼の目にも美しいものであった。


 不思議の国のアリス。一八六六年に、英国マクミラン社から出版された童話の題名だ。封筒を手に取り、裏を返すと、そこには赤い封蝋が成されていた。蝋には飾り文字のAが烙印されている。


 男は封を切ろうとして、ふと手を止め、背後を振り返る。


 床には、今しがた自分が入ってきたときの足跡が、埃の上に残っている。つまり、最近ここに入ってきたものはおらず、自分が久方ぶりの訪問者であるということだ。


 しかしそれならば、この封筒は誰が置いたのか。埃が降り積もる期間を考えれば、封筒の上にもうっすらと埃の層があってもおかしくはないはずだ。しかし封筒は愚か、机の上にすら埃はない。


 まるで、宙から机と封筒がいきなり出現したかのような、不自然さだ。


 男は口髭を僅かに動かすと、封を切った。


 中にはカードが入っていた。手紙は無い。それを裏返してみたとき、男の表情が変わった。


 カードには、森を背にして座っている一人の女性が描かれていた。彼女は豪華な座椅子に身を横たえ、手には杖を持ち、足下には楯を置き、穏やかな表情をしている。


 男はそのカードが何であるかをすぐに見抜いていた。カードをテーブルの上に置き、その絵柄に視点をあわせる。


 程なくして、男の視界の中で、絵柄の女性が動いたような気がした。


 いや、実際にそれは動いていたのだ。手に持った錫を一振りすると、剥き出しの土の表面が持ち上がり、その下から若芽が萌え出て来る。それが何の植物の芽であるかは分からなかったが、植物は見る見る生長し、女性の姿を覆い隠していた。


 しかし男は焦らない。


 いつしか、視界の周囲は夜の闇よりも濃い漆黒の空間となっていた。植物はさらに生長を続け、互いに絡み合い、太い幹となり、そして徐々に衰えていく。本来なら途方も無い歳月を経るはずのその光景を目の当たりにしながら、男は眉一つ動かさぬ。


 すっかり植物が朽ち果て、崩れてしまった先には、まだ依然として女性はいた。


 しかし、先ほどの絵に書かれた女性とは別人であった。


 こちらをひたと見据えている女性は、口元に微笑を浮かべるや否や、腰を上げた。


「アリスの庭へようこそ……お名前、聞かせてくださる?」


「……<叡智の塔ソフェイリー・トゥーウェルズ>所属、大賢者アデプタス・メイジャーアレクセイ・ファイアクレスト」


「あら、ではあなたが……」


「社交辞令の美辞麗句など結構。私は団より絶対忠誠の証として派遣された者」


 女はなおも薄笑いを浮かべていたが、やがてアレクセイから視線をそらした。


「この国に内乱が生じております……あなたは、帝都における結界を破壊してくださればいい」


「それが初陣か」


「ええ」


 女性は大きく頷いて見せた。


「幻術師としてのあなたの手腕を、しかと見せていただきますわ」


 アレクセイは、一度大きく目を瞬かせた。


 たったそれだけで、彼は瞑想魂径パス・ワーキングから脱していた。


 懐に女帝のカードをしまおうと封筒に手を触れたとき、中にまだ紙片が入っていることに気づく。指を入れ、取り出してみたそのカードは、ペンタクルと呼ばれる円盤が四つと青年が描かれたカードであった。

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