第一章第三節<月夜>
夜半過ぎ、沙嶺は唐突に目を覚ました。
明日には、帝都へ発たねばならぬ。その為に、夜は早く床に就いたというのに。
しかし、闇の中で横たわる沙嶺の神経は完全に覚醒してしまっていた。しばらくそのままの姿勢でいたが、やはりまどろみが訪れる気配も無い。知らずのうちに神経が昂ぶっていたのか、それともやはり不安が拭い去れなかったのか。
薄い夜掛けから身を起こすと、沙嶺は夜着のまま細い回廊へと出た。しんしんと冷えた廊下の板の感触を素足に感じつつ、踏みしめる際の微かな軋みを聞きながら、沙嶺は歩を進める。
幾度目かの角を曲がったとき、沙嶺は月の光を正面から浴びた。目は見えずとも、そこに荘厳な月の気配が満ちていることを、沙嶺は感じた。
沙嶺の背に垂れた銀の髪が、月光を受けて鮮やかな煌きを放つ。しばらくそのままの姿勢でじっとしていた沙嶺は、やがて回廊に腰を下ろし、そして背後の壁に背中を凭れかけさせた。
帝都、東享。その名はまだ新しい。
血腥い幕府軍と新政府軍との抗争の中、
それから十年、時代は信じられないほどの速度で変化を続けていた。
今なおその激動の変遷は留まることを知らぬ。こうして山奥にて修行に打ち込んでいてもなお、やはり俗世の動きはひしひしと伝わってくる。
昨年は、前時代の支配者的存在であった武士に秩禄処分が下され、一気に困窮を極めることとなったと聞く。金禄公債証書発行条例という名は大層なものだが、それとて武士階級を自然消滅に追い込む為に取られた策なのだろう。
それもこれも、全ては日本近代化という題目が掲げられた上の対策であるという。
では近代化した日本はどのようになるのだろうか。沙嶺とて日本の政治の全てを知っているわけでもないし、また人の口に上る話を全て真実だと思い込んでいるのでもない。
しかし、沙嶺は疑問に思っている。
近代化とは、何のための近代化か。今の日本の政治は、何のための政策か。
人のためではあるまい。
では国の為か。国とは何か。民あっての国ではないのか。
それでは日本はどうなるのだ。
鎖国が解かれ、諸外国の文化が次々に流入してきている。自分が知らぬ言葉を話す国があることは知っていたが、そのような者と顔を合わせる時代が来ようなどとは思っていなかった。
全てが、沙嶺の認識を遥かに越える速度で変化している。自分はそうした世の中で生きてゆけるのだろうか。斎蓮猊下はそうした今日の日本の姿を憂えているのだろうか。
それならば、どうして自分を選ばれたのだろうか。
自分に何ができる。いまだ修行中の身である、一介の修験の徒である自分に。
ぎし、と床板が鳴った。
その音は、常人が聞くよりも遥かに明瞭な響きとして、沙嶺の鼓膜を震わせた。考え事に没頭するあまり、誰かが近づいてきていたことに気づかなかったのだ。
はっと首を巡らせる沙嶺は、自分に近づいてくるものをすぐに悟った。
「やあ、ここにおったかあ」
宝慈であった。
「何をしているかと思えば、月見とは風流だのう」
「そうではないよ」
沙嶺は微笑みながら、宝慈に返事をする。
「この眼では、風流な景色を楽しむことも出来ないしね」
剛毅な気性の宝慈は、腹から響かせているような笑いを吐き出した。
「それもそうだ、失敬失敬」
巨体を揺すってひとしきり笑ったあと、宝慈は不意に口を噤んだ。その様子があまりに唐突だったために、沙嶺は戸惑いを覚える。
「宝慈?」
「もしかすると、わしらというのは……この時代には生きていけんのではないかなあ」
「何を言う、宝慈」
「海の向こうの人間が持ってきたものが東享ではもてはやされていると言うてな、わしらというのは、ずっと日本の裏方をやっとったのだろう」
それに対する言葉を、沙嶺は見つけられなかった。
「日本が変わろうとしているときには、裏方はお払い箱になるんでは、と思うてなあ」
「変わるといっても、日本人が全て横文字を読み書きするわけではないだろう」
沙嶺は、夜の空を見上げて呟いた。
それは、同時に沙嶺の願いでもあった。時代と共に、物事が移り変わるのは定めである。
しかし、人が人としての心を失わせるほどの変革は、起こらないで欲しい。否、そうした変革の中においても、自分というものを見失わないで欲しい。
「大丈夫だ、俺たちは決してお払い箱などにはならん」
一つ頷くと、沙嶺は己の迷いを振り切るように立ち上がった。
「もう休もう、明日も早い」
低く唸り、宝慈も腰を上げる。
沙嶺はそれに先んずること僅かに数刻、回廊に歩を進めていたときであった。
角を曲がったとき、沙嶺は何かが自分の胸を貫くのを感じた。無論、それは物体ではない。しかし何かが確実に、沙嶺に接触したのだ。
ずきりと痛む右胸を、夜着ごと掻き毟るように指を立て、沙嶺は身を屈める。
その脳裏に、浮かぶものがあった。
目の見えぬ沙嶺には、それが最初なんであるのかわからなかった。しかし、これまでに学んで来た数々の知識から、それが鎧を纏った人間であると気づく。朧げなその姿では、それが男であるのか女であるのか、そしてどのようないでたちであり、どのような風貌であるのか、知ることは出来ぬ。
しかしその者は、ひたと自分を見据えていたのだ。
「姫を」
誰何の声を発するより早く、鎧武者はその言葉を残し、消えた。
武者の姿が心から消え去ると同時に、胸を貫いていた痛みもまた、嘘のように消えうせたのであった。
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