第一章第二節<宝慈>

 姿を現した男は、沙嶺とは対照的な体格をした男だった。


 髪は綺麗に剃られており、頭の輪郭から首に向かうに従って、薄い皮の下にうねるような筋組織が骨格を護っている様がありありと見える。およそ、この男にとって贅肉と言う言葉は不要であろう。そう思わせるほどに、男の鍛錬には隙が無かった。


 同じ装束を纏っていても沙嶺とは明らかに、その印象が違う。沙嶺がこうして荒行に身を投じ、己の精神を鍛えようとするものであるとすれば、この男は恐らく厳しく険しい荒駆けによって肉体と精神を荒削りなままに原石を懐き続ける武骨な修験の道を志すものであるといえるだろうか。


 だが、分厚い胸板と隆々とした腕は見事なものの、その上にある顔は至って温和な青年のそれであった。


 名は宝慈ほうじという。


 下生えを掻き分け踏みしめて、決して整えられた足場とはいえぬ滝壷の横を平然とした顔で突き進んでくる。


「おぉい、沙嶺!」


 声がする数刻前から、沙嶺は宝慈の来訪を知っていた。


 しかし、その声が目が見えぬ自分への心遣いなのだということを、沙嶺はよく知っていた。


 人はその知覚の大半を視覚によって得るという。しかしその目が封じられれば、人は外界を知ることは出来ないのだろうか。


 否、だからこそ沙嶺はこうして厳しい行と環境の中でもこれまで、命を落さずに済んだのだ。


 目が見えずとも、その他にも感覚器官はある。そうしたものがより鋭敏になり、知覚を補っているということは、頭では分かっていても実感することは難しい。


「ややあ、精が出るなあ」


 語尾が微妙に伸びるのは、宝慈独特の喋り方だった。まるで畑仕事に勤しむ隣人に声をかける農夫のような言葉を伴いながら、法慈は沙嶺のいる岩場までやってきた。


 すぐ近くにまで寄れば、宝慈の威風堂々とした体格は寄りその実感を増すことになる。決して小さくは無い沙嶺であっても、この宝慈と比べるとどうしても脆弱な印象を受けてしまう。肉の総量でもあり、また沙嶺よりも頭一つ分だけ、さらに体躯が大きいことも起因しているのだろう。


 傍らの石にどっかりと腰を下ろし、宝慈は沙嶺の背後で今なおどうどうと轟き続ける滝壷をじっと眺めていた。


「どうしたんだ?」


 髪を拭いながら、沙嶺は宝慈を見下ろしていた。温和な顔をしてはいるが、時々宝慈はひどく虚ろな顔をする。遠い目の向こうに何を見ているのか、それが沙嶺には気になるところであった。


 たっぷりと数秒置いてから、宝慈は上体をがばりと起こした。


「そうだそうだ、いかんいかん」


 頭をぴしゃりと叩き、宝慈は沙嶺に向き直った。


「僧正様が、呼んでおられる」


 その言葉を聞いた沙嶺は、ぴたりと動きを止めた。今まさに、先刻の何かを感じたことについて、僧正に報告をしようと考えていたからであった。




 沙嶺が向かった先は、大きな社だった。


 清ら衣に改め、沙嶺は板張りの広い堂内で一人の男の向かいに座していた。


 そこは、信じられないくらいの静謐に満たされていた。あの滝壷からかなりの距離があるとはいえ、ここまでの静寂に支配された空間などあるのだろうか。


 冷たい板の感触を足に感じつつ、沙嶺は僧正の御前で座したまま一礼した。


 目の前の男は、かなりの老齢であった。黙したままであれば、ただ座しているのか眠っているのか、それすらも分からぬほどに深い皺が渋面に刻まれている。


 しかし、他ならぬ彼自身によって、この堂の静寂は保たれているのだと言う事を、沙嶺は知っていた。


 主のおらぬ無人の座敷であれば、ここまでの無音はありえぬであろう。それはすなわち、男の研ぎ澄まされた精神統一を無音として感じ取っているのだと、沙嶺は知った。


「お前の呼んだのには、理由がある」


 男の声は低く、そして押し殺した響きがあった。沙嶺の耳に、紙が広げられる音が届く。


比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじより密書が届いた」


 書であるならば、自分には読めぬ。


「しかも、書を携えていたのは護法ごほうだ」


 護法。


 その言葉に、沙嶺は驚きの色をありありと浮かべた顔を上げた。


 護法とは通常、仏法守護を担う鬼神精霊の類全般を指し示すが、沙嶺らなどのような山岳修験による曼華経行者の場合は特殊なものを意味する。極めて限定された実理性を伴う霊質を持つものであり、狐、犬、蛇などの動物に変ずることすらある使役霊を意味している。


 つまり、行者の霊力がそれ相応のものでなければ、たとえ下級霊であろうとも使役できようはずもない。護法を打てるものというのは、自ずと高位行者であることを同時に意味していた。


「護法……ですか」


 そのとき、堂内に光が差し込んだ。


 雲間から溢れた陽光が地表を暖める光を投げかけたのであったが、その光は堂の三方を囲う障子の紙に漉されることで白光と化し、逆に格子を射干玉の十文字として床板に映し出した。黒と白に染め上げられた空間にて、僧正は更に言葉を続けた。


「して、書は如何様でございましたか」


「帝都、東享とうきょうへと赴けとある」


「……なんと」


 江戸の都が、今の世では名を改め東享と呼ばれている程度の知識は、沙嶺にもあった。


 しかし、何故自分が。そして、どのような理由があって、帝都へ行かねばならぬというのか。


「重ねてお訪ね申し上げたく」


「わしは答えることは出来ぬ」


「何故でございますか」


 沙嶺の、いつにない態度に根負けした僧正は、深い溜息とともに決定的とも言える言葉を口にした。


「書にはそれしか書いておらんのだ。そして、護法は……大僧正六法界斎蓮阿闍梨のものだ」


 曼華経最高位とされている、大僧正六法界の名を継いだ者の名を耳にした沙嶺は、はっきりと分かるほどに肩を震わせた。


「わしにも、阿闍梨の本意は知れぬ。だが、こうして沙嶺の名を書かれていることも事実。お前のその目では見ることはかなわぬが……疑ってくれるなよ」


「元よりそのようなことはございません、しかし……訪ねる者がおれば」


「おらぬ」


「では身を寄せる宿は」


「ない」


 さすがに口を噤みかける沙嶺。当ても無く、ただ帝都に向かえとだけしか言われていないのであれば、混迷を極めるとしても無理は無い。


「……沙嶺」


 その心境を見抜いたのか、僧正は低い声で名を呼んだ。


「はい」


「お前には、阿闍梨にそうさせる何かがあると言う事だ。修行と思い、帝都へ行くのだ」


「はい」


「共に宝慈も向かわせるとしよう……二人の目で、帝都にて学ぶものがあれば、大いに学ぶがいい」



 一礼し、退室した沙嶺であったが、その胸中は決して穏やかではない。突然の命に動揺していた沙嶺が、あの正体の分からぬ声のことをすっかり忘れていることに気づいたときには、既に日は落ちてしまっていた。

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