第二章第二節<決起>

「そりゃあまた、物騒な話だなあ」


 快活な笑いに西郷は身を揺すった。その反応に、昨夜の出来事を報告していた桐野は焦りを隠しきれないといった口調で反論した。


「笑い事ではありません、先生」


「しかし、なぁ」


 首周りをしきりに触りながら、西郷は胡座を崩さずに自分の杯に酒を注ぐ。蝋燭が揺れ、西郷の影が堂内に大きく伸び上がる。


「で、そいつらはどうした?」


「小屋で縛り上げてあります……学生たちがやけに騒いでいたようですが」


「そうだろうなあ」


 自分の酒を飲み干すと、西郷は徳利を上げて桐野に薦める。しかし、その誘いに桐野は応じない。膝頭に手をついたままの姿勢で、ぐっと顔を上げる。


「先生」


「ん?」


 桐野の不安は、このところの各地における士族の反乱であった。


 神風連、秋月、萩と立て続けに起こっている、九州各地で生じている不平士族。彼等が暴動を起こすたびに、桐野には彼等の声無き声が聞こえるような気がしていた。


 何をしている。お前達は、いつ立ち上がるのだ。今こそ、新政府に一矢を報いなくては。


 このままでは明治の世は武士を消し去るつもりでいる。秩禄処分に廃刀令、次々に政府は条例の名のもとで俺たちを追い詰めつづけている。


 そのままでいいのか。近代化と西欧列強に追いつこうというという猛進の影に倒れるようなことでいいのか。


「先生は……いつまでこうしておられるお心算ですか」


 西郷は答えずに、無言のまま酒を飲む。それはただの生温い水のように、喉を流れ、腹に溜まっていく。


「萩の乱から三ヶ月が経とうとしております。元参議前原一誠率いる総勢二百余名、みな無念のままに……先生は」


「千葉、茨城、三重。日本各地でそうした反政府運動が繰り返されては消え、立ち上がっては叩きのめされ……それの繰り返しだ」


 その言葉に、桐野は嫌な予感がした。


 もしかして、先生は、諦めているのだろうか。日本の再改革という夢を、半ば捨てているのではないだろうか。


 不安はどんどんと大きくなる。西郷が最後の一言を発してから続く沈黙は、桐野にとっては苦痛でしかなかった。


「ここ、薩摩藩を除いて……日本のどこにも、政府へ立ち向かう力は残っていない」


 言葉の真意をはかりかね、桐野は身を乗り出した。


「わしらが倒れれば、残る士族は無念のまま、己の運命を受け入れるしかない」


「では!」


「最後まで聞け」


 いきり立つ桐野を制し、西郷は言葉を続ける。


「まだ、時が満ちてはおらん。わしらが立ち上がる時は、必ず来る……今焦っても、萩秋月の二の舞だ」


「先生がおっしゃることは分かります」


 膝を立て、桐野はぐっと拳を固める。


「しかし、先生のおっしゃる時とはいつのことですか!? 時を待ち、同朋を身殺しにしたのでは、我等はただの笑いものになってしまうではないですか!!」


 それへの応えは、ない。


 西郷自身、それに対する明確な答えを持っていなかった。機が熟する、という言葉を逃げに使っているとしても、誤解を解くだけの説得力のある考えはない。


「先生の作り上げたこの私学校は、いまや九州の士族の頼みの綱なんです!! 彼等の声をいつまでも、無碍に断り続けるおつもりですか!」


「わしの記憶が正しければ、なんだがな」


 一度言葉を切り、西郷は記憶の紐を手繰り寄せる。


「中原が言い残した、その川路という男は……内務卿、大久保利通と繋がっている」


 政府を相手に内乱を起こす。その覚悟は決まっていても、やはりその名を聞いた時には背中に怖気が走った。


「今は、まだ……」




 その言葉が最後まで終わらぬうちに、堂の障子が乱暴に開けられた。


 飛び込んできたのは、私学校生徒の一人であった。かなりの距離を全速力で走ってきたのか、呼吸が完全に乱れていた。それでも何とか声を出そうとするが、言葉にならぬ。ひゅうひゅうという音だけを喉から漏らしながら、若い学生は手をついたまま肩で息をしていた。


「どうした」


「先、せぃッ……どうが……あいつらが……ッ」


「落ち着け、落ち着いて話せ」


 ままならぬ呼吸でも、一刻を争うかと思える態度に何かを感じ取った桐野は、腰を上げて学生の傍らに寄った。


「海軍、造船所……あいつら、武器庫を……暴動を、起こして……」


 はっとなった桐野は、昨夜の昨日の自分の行動に思い当る節があることに気づいた。


 中原を尋問したあと、あの電報の紙片を小屋にいた学生に手渡したではないか。


 <ボウズ ヲ シサツ セヨ>。


 その文面を読んだ学生たちが、西郷への忠誠心に駆り立てられ、政府へ先制攻撃を仕掛けたのだとしたら。


 しかし、気づいたときにはもう遅かった。あまりの失態に、桐野は思わず舌打ちをしていた。当然ながら、決起をするにしても綿密な計画が必要になる。その場限りの感情で暴走すれば、失敗することは目に見えている。


 あいつらめ、私学校で何を学んだというのだ。


 そして、同時に自分のミスが招いた惨事を思い、桐野は眩暈がした。


 西郷は、ゆっくりと立ち上がった。


 呆然とする桐野、汗を垂らしたままの学生の横を通り、がらりと戸を開けた。


 ざわざわという葉鳴りの音と共に、この季節にしては暖かい風が西郷の躰を吹き抜けていく。


「いい夜風だ……そう思うだろう、桐野君」


 桐野の表情から、西郷は事態のおおよその状況を読み取っていた。


「よく知らせてくれた……そろそろ、私も動こうと思っていたところだ」


 がばりと学生が身を起こす。


「で、では!?」


「行って伝えなさい。新政府へ全面攻撃に出る準備は整った、とね」

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