第八章第二節<Spell of Vidyārāja>

 輸送船操縦室を、歓声が包み込んだ。


 誰一人、転送態勢に入るあの瞬間まで、港の突破が可能であるなど考えてもいなかった。メイフィルの腕を信じるかどうかということよりも、これまで港の警備態勢を突破した猛者がいなかったという事実が、彼らの行動と思考を縛っていたのだろう。


 それを、二十歳にも満たぬ少女がやってのけた。その意外性が、クルーの興奮に追い討ちをかけていたのであった。


 操縦士らはメイフィルの座るシートに幾重にも群がっていた。


 メイフィルの操作する画面を熱心に覗き込む者。クラッキングの知識で勝負をする者。ディスクの中身をつぶさに解析する者。彼らの目は、純粋な知識欲と好奇心に満ち溢れていた。躰だけはいっぱしの大人でありながら、熱っぽい口調と眼差しは、はじめてコンピューターに触れた少年時代のそれと、全く変わらない。


 それが分かっているのか、メイフィルは四方八方から質問攻めに遭いながらも、その一つ一つに答えられる範囲で真摯に対応していた。






「はい、どうぞ」


 腕を組んだまま、壁にもたれて動かないラーシェンに、ヴェイリーズは湯気の立つカップを差し出した。


 顔を挙げ、乱れた前髪ごしに視線を向けるラーシェン。カップから立ち上る湯気は、豊潤な珈琲の香りがした。黙ってカップを受け取ると、ヴェイリーズは傍らに置いた自分のカップを一口飲んだ。


「どうやら、彼女の腕前は一級品みたいだね?」


「……そうみたいだな」


 低い声で応え、ラーシェンもまたカップに口を付ける。


 二人の視線の先、巨大な液晶スクリーンには、サメク回廊の光景が映し出されていた。


 これまでの宙域とは大きく異なる、通称<回廊>と呼ばれたこの星域。目標の活動可能領域から発信されているサルヴェージ信号が受信可能な距離を進んだのち、目標の活動可能領域へと物理転移を行うことによってしか、回廊から脱出する方法は無い。


 無論、来た道を戻るという選択肢もあることにはあるが、今の状況において彼等にはその方法は考えられなかった。スクリーンには、進行方向の周囲に光の壁のように粒子が高速で擦れ違う様子が映っている。


「<Iesodイェソド>到達まで、どのくらいだ」


「ん……まあ、大体は半時間ってとこかな。それ以上の速度も出せるけど、第一燃料がもったいない」


 どこまでが冗談なのか分からない言葉に自分で笑って見せると、ヴェイリーズはタラップを降りて操縦席へと向かいつつ、くるりと振り向く。


「まあ、すぐに到着する旅じゃないから、楽にしててよ」




 その語尾は、唐突に船内に響き渡る警報にかき消された。




「警報発令です! 後方に高速接近中の船舶確認!!」


 通信士の一声で、それまでは勝利の凱旋気分であった操縦室に緊張が走る。


「追手か!?」


「識別信号、確認しました! <Taureau d'orトロウ・ドール>所属の戦闘艇です!!」


「くそ……追ってきやがったのかッ」


 傍らに拳を打ちつける。


 そういえば、ラーシェンとメイフィルは<Taureau d'or>の警備兵に追われていたのだ。


 普段なら<Taureau d'or>の警備兵などいるわけがないこの辺境都市。あの一件で、何かの理由でここに<Taureau d'or>の戦力が駐在しているという事実を、推理できて然るべきだったのに。


「追いつかれます、接触予想まであと6秒!」


「……俺が行こう」


 ちゃり、と太刀の柄を鳴らし、ラーシェンが踵を返す。


「船内に侵入されたら場所を警報で知らせるよ」


 もともと輸送船には武器の類は搭載されていない。


 接触するまで攻撃をしてこなかったということは、撃墜が目的ではないということ。つまりは戦闘は船内で展開されることになる。


 ラーシェンが操縦室から廊下に出たその瞬間、輸送船に強い衝撃が走った。


 思わずよろめき、壁に手を突くラーシェン。まっすぐに伸びる廊下の照明が警戒状態を示す赤に変わると同時に、ヴェイリーズの通信がスピーカーから響き渡る。


「左舷第五区域に外壁破損を確認したよ、敵はそこから……」


 場所を確認した時点で、ラーシェンは疾走を開始していた。


 この船に乗り込むのは無論、今回が初めてである。だが廊下を掛け、案内板の情報を読み、一時も止まらずに移動を続ける。船を守ることが優先条件ではあるが、同時に艦載した難民に危険が及ぶのは避けなければならない。


 幾度目かのドアを抜け、幅の広い回廊を折れ曲がった瞬間、ラーシェンの足は止まった。廊下の向こう側に、黒い戦闘服を着た兵士等の姿を確認したせいだ。


 ばらばらと走っていた兵士もまた、黒衣のラーシェンを見た瞬間に移動を中断。兵士の人数は全部で十人を越える数。それらの悉くは銃火器で武装したまま、じっとこちらの隙をうかがっている。


 小賢しい、とラーシェンは胸のうちで毒づく。


 もしこれが普通の戦闘ならば、彼等は躊躇いも無く銃火器のトリガーを引くだろう。十人以上の銃火器の弾丸を前にすれば、常人であれば一瞬にして絶命するであろうからだ。それをしないということは、ラーシェンが常人ではないという情報を持っていることになる。


 何処までが知れているのか。


 ラーシェンの懸念材料は、それ以外にもあった。この廊下の幅は、大人が四人までならぎりぎり並んで通れるだけの幅しかない。つまり、一対多数の戦闘時には重要な要素となる、立ち回りの範囲が大きく制限されてしまっていることにある。


 互いの手の読み合いに発展した戦局であったが、ここで時間を浪費することはできない。これ以上の兵士が侵入してきている可能性もあるのだ。敢えて太刀には触れず、一歩を何気なく踏み出すと、兵士は一様に銃口を構え、トリガーに指を当てる。


 勝てぬ相手ではない。だが、銃創の一つ程度、覚悟を決めるか。そう、腹を括った時であった。




「そう、お躰を粗末にするものではありませんわ?」




 傍らから聞こえた声は、女性のものであった。


 驚いたのはラーシェンである。


 戦闘時、気息の流れを読みながら切り結ぶSchwertMeisterシュベールトマイスターは、相手や周囲の気の流れ、呼吸などから戦況を把握する。つまり、感覚を鋭敏にしているラーシェンのすぐ隣に、察せられることなく近づくことは、至難の業であることを意味するからだ。


 姿を現した女性は、ラーシェンよりも頭一つ分低い、しかし女性としてはかなりな大柄の体格をしていた。髪は強いウェーヴをかけられて胸元まで垂れており、その下に隠された相貌は成熟した色香を漂わせている。大きく胸元の開いた衣装を纏ってはいるが、下品であるという印象は受けぬ。黒いレースをあしらったそのドレスは、およそこの戦闘の場には似つかわしくない印象を受けるものですらあった。


 エナメルの光沢を持つヒールのつま先を長い裾から覗かせながら、女性は瞳だけを動かして隣のラーシェンを一瞥し、そして赤く塗られた唇を微笑みの形にする。


「女、貴様もこの船の乗組員か!?」


 くみし易しと踏んだのか、兵士たちは女へと詰問する。だが女は冷たい表情のまま、ひたと兵士を見据え。


「あなたたちは<Taureau d'or>の兵士ですね……?」


 すい、と両手が上がる。手首を交差させ、それぞれの親指と小指で円を描くように結印。


おん 婀蜜哩帝あみりてぃ うん 発吨はった!!」


 真言が女の口から迸った瞬間、眼前の空間が紅蓮の光に包まれる。


 それは、紛れもない炎であった。女の奇妙な言葉に導かれ、虚無の空間から出現した炎は、まるで生き物のように眼前にいる兵士たちに襲い掛かった。


 廊下に交錯する兵士らの悲鳴と銃声。


「今です……お行きなさい!」


 躊躇いも無く抜刀された太刀が鈴の音を帯びて鳴る。だん、と踏み出した足に力を込めて、ラーシェンは紅蓮の光の中に舞い踊る。


 完全に恐慌状態に陥っている兵士たちの間を掻い潜るようにして、ラーシェンは一呼吸の間に反対側へと辿り着いた。太刀の刀身に付着した血糊を弾き飛ばす血振りを行うと同時に、兵士等の体はぐらりと傾ぐ。


 床に水音を立てて血糊が叩き落される音につられ、兵士等は誰一人、発砲する隙すら与えられずに、急所から鮮血を噴出して折り重なるようにして倒れた。


 ラーシェンは太刀を鞘に戻しながら、改めて振り向いた。あのとき、炎の中に踏み込んだとき、ラーシェンは兵士等のように炎の熱さを感じなかった。だが、眼前の兵士らは太刀による致命傷に咥え、高温で炙られたような火傷の跡が無数に見られる。


「あんた……今、何をした?」


「彼等の使う銃弾、そして彼等の所属たる名<Taureau d'or>、そのどちらも金気を帯びておりますが故……相剋たる火気、すなわち南方守護の軍荼利明王ぐんだりみょうおうの尊力をお借り申し上げたのでございます」


 女の言葉を理解しようとするが、その単語の一つ一つがラーシェンの記憶の中に適合しない。


 だが唯一、分かることがあった。それを証明するかのように、女は慇懃な所作で頭を垂れた。


「私はFacultriceファキュルトリスの能力を持つ者、フィオラ・マグリエルと申します。お見知りおきを」

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