第八章第一節<Plan of departure>

 差し出される登録用紙に、ヴェイリーズは手早く署名する。用紙の背にはプラスチックのボードが取り付けられてあったが、ヴェイリーズの筆圧に文字が大きく歪む。


 だがそんなことには気にも留めず、ヴェイリーズは用紙を目の前の男へと突き返した。


「ラルゴ・フォウス……確かに」


 男はヴェイリーズのものではない名を口にし、傍らに停泊している輸送船をちらりと見ると、登録データを照合する。


 一目で金の無い零細商人のものだと分かる、薄汚れた船であった。外壁の塗装を省いているので、薄く錆と機械油がこびりついた汚れ自体が船の塗装のようになってしまっている。鉄くずと思われても仕方が無いほどに汚れたその輸送船の所有者の名は、ラルゴ・フォウス。


 だが何故か顔写真は、ヴェイリーズと瓜二つのものであった。


「はいよ」


 男の反応を警戒しつつも待っていたヴェイリーズに返って来たのは、毎日の仕事で疲れた男の低い声であった。だがそれは同時に、偽装がばれていないことを意味している。


 昨夜、メイフィルの改竄によってこの船を正式な登録船舶としてデータベースに上書きしていたことまでは、男の手元にある端末では知ることが出来ないらしい。否、よほど詳細な記録をひっくり返して調査を行わない限り、メイフィルの記録改竄は見破れぬ。


「お疲れさん」


 くるりと背を向け、ヴェイリーズは船へと続くタラップを小走りに駆け上がる。

あのメイフィルと名乗った少女の機械工学とプログラミングの知識技術はホンモノだ。レジスタンス活動をしていて、こんなにも堂々と、亡命難民を乗せた船を出航させるようなことは、今までは一度としてなかったのだ。


 今のところ、ばれている様子はない。データ改竄だけで、突破できるかもしれない。操縦室へと向かうヴェイリーズは、操縦士たちの視線に迎え入れられた。


「出港準備はいいのかい」


「いつだって飛び出せるんだけどよぉ」


 操縦士からも、懐疑の視線を向けられる。その意味を理解しているヴェイリーズは、手を振って言葉の続きを制止した。


「分かってる、俺だって上手く行きすぎて怖いくらいさ」


 ヴェイリーズはため息をつきながら、シートに腰を下ろす。


 そのとき、通信士が港からの連絡を受け取った。


「出航許可下りました、これより出航態勢に入ります」






 一堂が見守る中、輸送船は管制塔の自動航行システムに制御の一部を解放することで、外部コントロールの態勢に入っていた。


 操縦士の腕の良し悪しで港の装備を破損されてはたまったものではない。回廊内ではその制御は切れるものの、港を出るまでの一定期間、艦船は管制塔の指揮下に入るのだった。


 自動で動く操縦機器を見つめながら、誰もが固唾を呑んで見守っている。操縦室の後ろのドアの付近には、怪しまれることがないよう、人目につかないところにいたラーシェンとメイフィルがいる。警備兵にも追われた人間を、おいそれと目立つ場所に晒していては、警戒しろと言っているようなものだ。


 腕を組んだまま、ラーシェンはじっと操縦室からの光景を見つめている。無重力状態になっている、巨大な直径を持つ加速器の中央に静止した船は、いつでも加速を開始できる手筈になっていた。


 徐々に近づいてくるゲート。その向こうには、同じ<Tiphrethティフェレト>星系の宇宙が見える。


 あと一分もしないうちに、船は港を出港する。


 誰もが、肩の力を抜いた。 


 その沈黙を破るように、緊急通信を知らせる電子音が船内のスピーカーから流れてくる。


「チッ……やっぱりばれやがったか!?」


「管制塔より入電、至急停船せられたしとの内容です!!」


 ヘッドホンを耳に当てたまま、通信士が叫ぶ。見れば、眼前に迫っているゲートの周囲に、桃色の煙のような光が収斂してきている。


 結界だ。恐らくどこかからの情報を仕入れた港が、ラーシェンとメイフィルの身柄を拘束するよう命じられたものだろう。このまま突破しようとすれば、あの結界に突っ込むことになる。見た目は頼りなげだが、大型戦艦一つを瞬時に巨大な鉄屑に変えるだけの破壊力を秘めた結界だ。


「クソっ……」


 万事休すか。そう、ヴェイリーズが腹を括ろうとした時だった。


「どいて!!」


 文句を上げる暇も無く、操縦士の一人が座席から押し退けられた。見れば、さっきまでラーシェンの隣に座っていたメイフィルが、コンソールを前にした席に陣取っている。


「お前……何するつもりなんだよ!?」


「推進エンジン、現在の速度の35%まで減速! アイドリングで待機して!」


 言うが早いか、メイフィルは管制塔からの航行システムの接続を切る。がくんと船が揺れるが、咄嗟に別の操縦士が航行を船側へと切り替える。


「どうするって!? 決まってんでしょ……こっから出るのよ!」


 鞄の中からディスクを抜き取り、それをコンピューターに挿入。恐ろしいまでの勢いでコンソールの上で指が踊り、画面に一つのウィンドウが表示された。


 それを見た操縦士は、誰もが我が目を疑っただろう。何故ならそれは、船では決して見ることが出来ない、管制塔側のシステム管理画面であったのだ。


 驚くべき速さで、メイフィルは無線を逆に利用し、管制塔の端末管理権限を奪い取っている。


 だが、結界は以前として目の前にある。しかも船は前進を続けているのだ。


「結界接触までの時間を教えて!!」


 メイフィルの声に、同じ職人肌を感じ取ったのか、今日初めて組む相手とは思えない息で男が答える。


「現行速度維持で78秒!」


「それだけあれば十分よ」


「何すんだい」


「結界霊力を解除するのよ、ちょっと黙ってて」


 メイフィルがあっさりと言ってのけた返答に、ヴェイリーズは唾を飛ばすほどの勢いで抗議する。


「できるわけないって!! ありゃあ<Taureau d'orトロウ・ドール>の超長距離飛躍港のセキュリティがかかってんだから!!」


 ヴェイリーズの抗議に対抗するかのように、画面にメッセージが表示される。結界をコントロールしているセキュリティプログラムは、その重要性から七つの保護が施されていた。


「警告する、貴船の再点検を行う、よって速やかに停船せられたし、繰り返す……」


 システムのコントロールをクラッキングしても、結界の開閉コードまでは判別できない。


 しかしメイフィルは諦めない。あのとき、ヴェイリーズの目の前でやってのけたパスコード解析プログラムがメモリを食い尽くさんばかりの勢いで働き、片っ端から開閉コードの文字をはじき出す。


 数字からなるコードではなく、アルファベットによる文字列のため、予想される選択肢は数倍にも膨れ上がっている。


 その光景を眺めるメイフィルに、操縦士から声がぶつけられる。


「結界接触まで残り50秒!」


 まるでその声が聞こえないかのように、画面に食い入るメイフィル。弾き出されてくるアルファベットの羅列。一見して無秩序な、そして同じアルファベットの繰り返しをも含められるその文字列。


 無論、解析防止用のものなのだろうが、管理する側とすれば困難を極めるだろう。これだけの、百を越える桁数の無秩序なアルファベット羅列を全て暗記することなど、人間には到底不可能だ。


 管制塔からの警告と、操縦士のカウントダウンがメイフィルを追い詰める。


 そして。


 メイフィルは鞄を開くと、一枚のディスクを抜き取り、それをコンピュータへと挿入、起動する。


 それは本来、VAのアプリケーションを記憶させておくディスクであった。この状態で何かの役に立つとも思えないものであったが、メイフィルは試行錯誤をしている様子はなかった。


「結界接触まで残り35秒!」


 162桁のアルファベットコード。それを一定の法則で並べ替えれば、必ず。


 電子音が鳴り響き、検索が終了する。


 162文字の章節の適合率が100%の文章が画面に表示される。


 これだ。メイフィルは結界操作システムを呼び出し、その画面に表示されるままのコードを打ち込んでいく。


「And the LORD said unto Moses, Stretch forth thine hand toward heaven, that there may be hail in all the land of Egypt, upon man, and upon beast, and upon every herb of the field, throughout the land of Egypt.(主、モーセに仰せられしや。汝の手を天に向けて差し伸ばせ。さすれば埃及全土にわたりて、人、獣、また埃及の地全ての野の草の上に雹が降らん。)」


「推進エンジン点火!! 回廊へ転移態勢に移行、対ショック準備!!」


 既に目の前に桃色の光がいっぱいに迫ってきている。この時点で速度を上げれば、まず間違いなく命は無い。だが驚くべきことに、操縦士はメイフィルの指示に従った。


「結界接触まで残り12びょ……いえ、結界変質!」


 操縦士の言葉に、誰もがモニターに身を乗り出した。まるで地獄への入り口のように迫っていた結界の光は、明らかに薄くなっていた。


 加速器の終焉に設置された結界生成機から放出される力場は途絶えており、これまでに結界を構成していたエネルギーの残滓がゆっくりと中空に四散していく。


 周辺領域から光が消え、宇宙の深遠が戻ってくる。急速に中央に収斂するように消えていく結界の最後の光が吸い込まれた直後に、結界のあった場所を輸送船が恐ろしい勢いで通過していく。


 加速器から脱出に成功した輸送船は、白い同心円の光の残留波動を宇宙空間に残しつつ、十五番回廊である、通称サメク回廊への転移を完了した。

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