第六章第三節<Disease>

 銃を突きつけられていることを分かっているのだろうか、ラーシェンはまた一歩を踏み出す。


 否、それは既に一歩と呼べるものではなかった。前に進もうという意志による動きではなく、バランスを崩した躰を支えるための動き。足が水溜りに入り、派手な水音を立てる。


 だめだ。今のラーシェンには、周りの声を聞くことも出来ないに違いない。何かに祈るように、メイフィルがぎゅっと目を閉じる。


 そのときだった。


 警備兵たちのすぐ真後ろで、何かが凄まじい音を立てて落下してくる音が狭い裏路地に響き渡る。その衝撃こそ伝わってはこなかったが、緊迫した空気の中で、警備兵は完全に虚を突かれていた。


 振り返り、銃を乱射する者もいれば、頭上に人影を求めて仰ぎ見る者もいる。


 しかし、一つだけ確実なことがあった。


 その瞬間だけ、彼らの注意が二人から逸れたということであった。


 隙を突くように、困惑するメイフィルのすぐ近くの壁の中から、一人の青年が姿を現す。壁から、というのは、しかしメイフィルの感覚でそう感じられただけのこと。煤と泥で汚れきったドアは、周囲の壁と一体化したように見えただけであり、青年はれっきとした生身の人間であった。


「こっちだよ、おいで」


 メイフィルに声を掛け、そしていまだふらついているラーシェンの手首を掴むと、青年はぐいとドアの内側に引き入れる。素早く、そして物音を立てないようにドアを閉め、青年はほぅとため息をついた。


 極度の緊張から解放され、その場にへたりこんだメイフィルは、何も言えないままに自分たちを助けてくれたらしい青年を見上げる。


 金髪を短く刈った髪型に、肉食獣のような褐色の瞳。緩いタンクトップのシャツを着てはいるが、その下には贅肉が欠片もない、鍛え抜かれた肉体が隠されている。躰を締め付けない服装のその青年は、メイフィルの視線に気がつくと、人懐こい笑顔を浮かべ、そして唇に人差し指を当てて見せる。


 青年は扉ごしに、外の警備兵の気配を探っていたが、やがて通路の奥へと視線を向ける。


「立てるかい? たぶんここは勘付かれる……逃げるよ」


 壁にもたれ、荒い息をしているラーシェンには激しい運動は無理だ。小さく、早口で青年はメイフィルにそう伝えると、ラーシェンの手を引いて通路の奥へと進み始めた。


 背後で、扉を開けられる音は聞こえてこない。だが、メイフィルはまるでひたひたと妖魔が迫ってくるような、そんな圧迫感を感じる。自分より少し前を、よろめきながら進んでいるラーシェンをちらりと見、そして先導する青年を見る。


 青年が何者なのか、どうして助けてくれたのか、聞きたい事は山ほどある。正直、青年が味方であるという保証はない。だが、今の自分には、青年の腕を振り払って、自分の力だけで問題を切り抜けるだけの余裕と手段はなかった。


 幾重にも折れ曲がる通路を歩き、そして辿り着いた先には扉が一つ。それを抜けた先は、今までと同じような、裏路地の一角であった。違うのは、それが袋小路であるということ。そして、その袋小路の突き当たりには、朽ち掛けたバラックがあるということであった。


「ラーシェンと一緒に、あの小屋に入っていてくれないか」


 とん、とラーシェンを任せられたメイフィルの顔が驚きに歪む。


「あなた、どうして名前……」


「時間がない、奴等が来る」


 奴等、という言葉が<Taureau d'orトロウ・ドール>警備兵を指していることは、火を見るよりも明らかだ。


「大丈夫、後から僕も行くからさ」


 人懐こい笑顔をそのままに、青年は小屋へと二人を押し遣る。狼狽を隠し切れずに、それでもメイフィルが小屋へと身を隠したのと、青年の正面のドアが破られるのとはほぼ同時であった。


 ばらばらと零れるように姿を現す警備兵たち。漆黒の戦闘服に身を固め、既に射撃準備を終えた警備兵たちは、容赦なく青年へと銃口を向ける。


「何者だ、貴様!」


 こちらに背を向けているために、物陰から様子を伺うメイフィルには青年の表情は見て取れない。奥の床では、汗塗れのまま、ラーシェンが肩で息をしている。


「ん、まぁ……通りすがりの青年だと思ってよ」


「ふざけるな!!」


 青年の物言いに、警備兵の怒号がびりびりと空気を奮わせる。肘を曲げ、両手を挙げている青年になおも銃を突きつけ、別の警備兵が口を開いた。


「ここに、黒服の男と、少女が通らなかったか」


「うぅん、見てないねぇ……」


「貴様、真面目に答えろ!」


 怒号と共に、青年の足元に着弾する。轟く銃声に、青年の顔から微笑みが消える。


「知らないって言ってるのに……もし当たったらどうするの」


 青年から放たれる気配の変調に、警備兵たちは敏感に反応した。照準を青年の額、胸、足などに定め、いつでも射撃できる態勢を取る。


「……撃てるの?」


「貴様!!」


 銃を突きつけてもなお、こうした態度を取る相手を見てこなかったせいだろう。頭に血が上った警備兵らは、声を震わせつつ引き金を引こうとした。


 だが、次の瞬間、彼らの前から、青年は姿を消していた。


 消えた、のではない。


 常人の動体視力の限界を超える速度で、頭上へと跳躍していたのだ。警備兵らが振り向くよりも早く、膝を曲げて着地の衝撃を相殺した青年は、その反動を利用して、無防備な背中を向けている警備兵らの只中へと突っ込んでいく。


 同士討ちを狙うのだろうか、とメイフィルが思った瞬間だった。まるで幻影のように、朧げな輪郭を持つ青年の姿が、左右にぶれながら警備兵の集団を駆け抜けていた。


 そして、見よ。


 広げられた左右の手の指からは、のたうつ蛇のように弧を描く、赤くうねる紐のようなものが伸びているではないか。まるで何かを抱えようとするかのように、腕を開き、指も開いたその格好から、青年は躰の前で腕を交差させる。


 そのときになってやっと、赤い糸か紐だと思われていたものが、鮮血であると分かった。


 糸を引いた鮮血が、ばしゃりと足元に落ち、飛び散る。青年の背後で、銃を構えたままの警備兵たちが、寸毫の遅れをもって、次々に横転し倒れた。


「……貴様……何を……」


 苦悶の声を上げる警備兵を、指先を血糊で濡らした青年は冷ややかな視線で睥睨する。


「<指銃のヴェイリーズ>、その名を知らないなら教えてあげるよ……命に別状はないけど、もう君たちは一生補助器具と離れられないだろうね」


 名を聞いた瞬間、警備兵の表情が凍りつく。


 しかし、最早自分では指一本動かせない。泥と水溜りに身を浸しながら、うめく彼らを残し、ヴェイリーズと名乗った青年はゆっくりとした足取りで小屋へと向かう。


 あの位置からでは、首や頭の位置を変えることもできない。ヴェイリーズは戸を開けると、中にいる二人の側までやってきた。


「あいつら……殺したの?」


「殺しはしてないよ」


 床板の隙間に指を入れ、ぐいと引き上げると、そこには下へと続く階段が現れた。


「擦れ違う間に、運動に必要な筋肉を破壊しただけだよ。だからもう彼等は、自分では動けない」


 事も無げに言ってのけているが、それがどれだけ凄まじいことか、メイフィルには理解し切れなかった。


 運動に必要な筋肉を破壊するといっても、筋組織は容易に破壊できるものではない。正確に腱を断てば筋肉を無効化させることはできるが、一人の人間の躰に一体幾つの腱が存在するのだろうか。しかも、警備兵は衝撃や銃弾、そして汎用式の魔術から身を守ることができる戦闘服を着ていたではないか。


 無手で、戦闘服の防禦を突き破り、正確に筋肉だけを破壊する。それがどれほど困難であるかと同時に、そのようなことが可能な人間など、ほんの一握りでしかないはずだ。


 ヴェイリーズはそれからラーシェンの元へと足を運び、そして手首の脈を確かめる。


「あんた……放浪病だったんだね。まさか、一度……」


 そこまで言いかけ、そして頭を振る。


「まずは下で落ち着いて。体力が回復したら、治療するから」



 ラーシェンの腕を取り、支えながらぐっと抱え起こすと、ヴェイリーズは階段を一段ずつ、ゆっくりと下りていった。

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