第六章第二節<Escape from pursuer>

 部屋の中へと戻ったラーシェンは、まずメイフィルの肩を掴んで激しく揺さぶる。


 素っ頓狂な声を上げて目を覚ますメイフィル。意識を取り戻したのを確認すると、ラーシェンは手早く荷物をまとめる。


「えっ……ラーシェン……どしたの、まだ夜……よね?」


「支度しろ、<Taureau d'orトロウ・ドール>の警備兵が来る」


 ベッドの上で、まだぼんやりしているメイフィルだったが、警備兵という単語には敏感に反応して見せた。


「ちょ……っと、なんかヤバイことしたの!?」


「いいから話はあとだ。これはもういいのか?」


 テーブルの上にある、改造式のVAを掴むと、ラーシェンはメイフィルの前に突き出してみせる。


「うん、もう改造は終わってる、実戦投入だって……」


「早く用意しろ」


 メイフィルの腕の中にバッグを押し付けると、ラーシェンは新式のVAを腕に装着。


 そのとき、ラーシェンの耳には階下の騒ぎが聞こえてきていた。本当に時間がない。外套を羽織ると、腰に吊った太刀を確認。疲れて眠っていたのか、普段着のまま寝入っていたのが功を奏したのか、メイフィルも支度を完了させている。


「行くぞ」


「うん」


 緊張を隠せない表情で頷くのを見ると、ラーシェンは部屋のドアを開け放ち、廊下へと出る。


 だが、すぐ横の階段から、足音が大いなる絶望と共に近づいてくる。


「……貴様、逃げる気かッ」


 警備兵の叱咤が飛んでくる。


 考えている時間はない。廊下には窓の類がないことは、既に知っている。今まで自分たちがいた部屋にある窓は、大通りに面していた。


 逃げ場は。


 考えるよりも早く、ラーシェンは正面にある客室のドアを思い切り蹴り付けた。


 緩んでいた蝶番は呆気なく敗北を認め、ドアは内側へと倒れこむ。硬直するメイフィルの手首を掴み、ラーシェンは部屋の中へと駆け込んでいく。すぐ背後を弾丸が擦過する銃声を聞きながら、ラーシェンは部屋の向かいにある窓へと直行。


 ベッドの中の男が下品な声と言葉で抗議の声を上げるが、そんなことにはかまっていられない。この位置の窓から、裏通りに面しているはずだ。


「跳ぶぞ」


 メイフィルの承諾の返事を待つよりも早く、ラーシェンは腕で頭を庇ったまま窓へと突進。


 硝子が割れ砕ける音とともに、ふっと躰に感じられる重力が失われる。そのまま裏路地へと落下したラーシェンは、空中でメイフィルの腕から手を離した。


 途端に支えがなくなり、メイフィルが悲鳴を上げる。


 メイフィルの手を離したことで、自由に動けるようになったラーシェンは建物の壁を蹴って素早く着地。硝子の破片と共に降ってくるメイフィルを受け止めると、外套を翻して硝子の破片を弾き返す。ぱらぱらと周囲に飛び散る破片が収まったことを確かめると、ラーシェンはメイフィルを覗き込む。


「走れるな?」


「あ、はっはいっ」


 怪我がないことを確かめると、ラーシェンは裾を翻して疾走を始める。この街の裏路地の地図が頭に入っているわけではない。


 だが、あの時点での唯一の脱出経路はここしかなかった。大通りに向かう道を消去すると、方向は一つしかない。路地に積み上げられた雑多なガラクタに足をとられないように進むのは、思った以上に困難であった。


 それに加え、背後のメイフィルは大きな荷物を肩に担いでいる。角をいくつか曲がったところで足を止め、後ろを振り返ってメイフィルの様子を確認する。


 それまでも、背後から聞こえてくる足音を頼りにしていたラーシェンだったが、ひとまずは足を止める余裕が出てきていた。慣れない運動と安定の悪い足場に、顔を汗で濡らしながら何とかついてくるメイフィル。


「大丈夫か」


「うん、なんとか」


 ラーシェンが足を止めていることを知ると、メイフィルの顔に安堵の色が浮かんだ。壁に手をつき、ぜえぜえと肩で息をしている。メイフィルの履いているブーツは、泥水が染みこんで汚れてしまっていた。


「悪かったな、いきなり飛び出してきて」


「いいけど、なんで、警備兵になんか……?」


 眼鏡を外し、顔の汗を拭うメイフィルに、ラーシェンは視線を逸らしながら何かを口にしようと唇を開く。


 だが、その間から出てきたのは、濁った色をした血であった。激しく咳き込み、そのたびに唾液交じりの血液が糸を引く。


「ちょっ……撃たれたの!?」


 何かを言おうとするのだが、ラーシェンの喉はひゅうひゅうと空気の漏れる音以外を発せられない。そのせいでさらに深く咳き込み、幾度目かの咳で、足元の瓦礫の上に大きな血塊を吐き出す。


 べちゃりと破裂するその塊に、メイフィルは顔面を蒼白にする。


 ラーシェンの容態は、尋常ではない。


 そのときであった。背後の路地から、幾つもの足音が近づいてきていた。


 はっとして、ラーシェンに向き直るメイフィル。汗まみれの顔で、額に髪を張り付かせながら、力なく微笑むラーシェン。その躰で戦おうというのだろうが、膝はがくがくと痙攣している。その姿の何処にも、戦いに耐えうる体力というものは残っていない。


 そして。


 眼前の角から、黒い戦闘服を身に纏った兵士が四人、姿を現す。一斉に銃口を向け、態勢を低くし、固定する。


「動くなッ」


 兵士の怒号に、ラーシェンが一歩を踏み出した。


 だがそれはぬめる水溜りに自由を奪われ、ずるりと態勢を崩す。しかしその光景も、緊張の糸を張り詰めさせている兵士たちには反撃の意思ありと映ったのだろう。一斉に射撃態勢を取り、トリガーに指をかける。


「やめて」


「それ以上動くな!! 動けば撃つ!!」


 メイフィルの制止の声は兵士の警告にかき消される。ひゅうひゅうと喉を鳴らし、兵士を睨みつけるラーシェン。



 一触即発の事態。


 解決策を求めて伸ばす指先は、ただ空を掻くしかなかった。

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